156センチの視線

「過去という泉は深い」

『ヨセフとその兄弟たち』(ロマン・ローラン)の中に「過去という泉は深い」という言葉があります。旧約聖書の創世記にある数奇な生涯を送った「ヨセフ物語」を題材にしたものです。
 自分の「過去」が「現在」であることを噛みしめる昨今です。過去を消去しての現在は成立することは出来ません。現在はいつも過去の上に成立しています。精神分析はそれ故にこそ成立します。
 現在を生きるためには、過去をまるごと受け入れる必要があります。それ故、豊かな実りある人生を送るためには、過去を消去、忘却することではなく、「受容」することが必要です。過去を握りしめることではなく、開放することです。 
 ヨセフは父ヤコブの亡くなったとき、仕返を恐れる兄達にいいます。「恐れることはありません。〜あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民を救うために、今日のようにしてくださったのです。」(50:19〜)と。
 過去という泉とどのように向かい合うかは、その泉から何を汲み取るかと深く関わってきます。
 わたしたちは、自らと人びととの過去と向かい合いつつ現在を生きているのです。そして「彼、彼女」との出会いは、自分の過去でもあります。「インマヌエル」の過去と今に出会うことです。