宣教

「視覚化された愛」

ヨハネ1:14〜18
 主イエスが肉体をもってこの地上に来られた神の御子であることを、聖書は「言は肉となって、私たちの間に宿られた」と表現しています。天地創造さえも可能な、神と等しい身分の主イエスが、人間となった出来事。そればかりか、十字架で死刑になり、惨めな姿で死んでいったのは、何故だったのでしょうか?
 ヨハネによる福音書の中では、主イエスに対して「父なる神とは誰か」という趣旨の問いが多くなされています。それに対し、主は「わたしを見た者は、父を見た」と言うのです。愛の反意語は無関心だと言われています。神の愛は、人間の罪や嘆き悲しみに無関心でいられるほど浅くありません。人間を愛するあまり、神であることさえも投げ捨てて、人として私たちの世界に降ってきたのです。誰かを愛するためには、その人のいるところへ行かなければならないからです。
 人として歩み、十字架の上で血と汗を流し、苦しみ抜いた主イエスは、この世界で味わう肉体的、精神的苦痛を味わい尽くしました。それは、私たちが味わう苦悩に対して、神は無関心ではないのだということを示し、すべての罪を身代わりとして背負った出来事でした。その神の愛が私たちに向けられているのです。