宣教

「全世界を手に入れても」

 詩編37:1〜6  マタイ16:21〜28
 聖書によれば、今、生きているわたしたちだけでなく、歴史を生きた全てのクリスチャンも含む壮大な喜びの交わりが、キリストの身体である教会です。
 今日、帰天者記念礼拝を守っていますが、ここにある写真の方々だけではなく、アブラハムもモーセも、ダビデも預言者たちも、この、キリストの教会に連なっていることを覚えることができることは大きな喜びです。住む所を異にしていますが、同じ御手の中にあることは何という喜びでしょう。
 『死ぬための生き方』と『生きるための死に方』という本があります。「死を見つめながら今をどう生きるか?」という前者と、「よく生きるためには、今にどう死ぬか」と問いを発するのが後者です。両方とも大切ですが、わたしは後者に心惹かれます。
 25節で、「自分の命を救いたいと思うものはそれを失う」と言われた主は、さらに「人はたとえ全世界を手に入れても自分の命を失ったら、なんの得があろうか」と鋭く問いかけます。「この人たちは信仰を抱いて死にました』(ヘブライ11:13)とあります。
 全世界を手に入れようとして滅びた人の何と多いことでしょう。愛に死ぬ十字架に、永遠の命が宿ります。