宣教

8月7日「明け渡して得られるもの」

詩篇1:1〜3 ローマ12:1~2
 人生を車に見立てたとすると、その運転席には誰が座っていますか?私を含め、多くの人は、助手席にイエス・キリストを乗せて、自分流の運転をしつつ、時に応じてキリストに頼ることを求めているかもしれません。キリストにハンドルを任せたら、どこに連れて行かれるかわからない、そんな不安があるでしょうか?
 使徒パウロは、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」と教えています。ユダヤでは、生けにえは焼きつくされました。私たちは、自分の思いをすべて神の前で焼きつくすように求められているのです。それは、自分の思いを神の思いに置き換える作業です。
 「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人」は、することすべてが繁栄をもたらすと聖書は約束しています。事実、そのように生きた方を私たちは知っています。主イエスは神の教えをことごとく実践し、その周囲は天国のように平和がありました。しかし、同時に主はいつも父なる神に祈ることで、自らの思いを焼きつくしていかれたのです。「みこころのままに」という全幅の信頼こそ、真の礼拝者の生活です。