156センチの視線

1月13日「信仰の深み」

 2019年も1月半ば、文字通り、矢のように月日が過ぎ去っていきます。「昨日またかくてありあくせくけり 今日もまたかくてありなん この命 なにをあくせく 明日を飲み思い煩う…」(島崎藤村)のごとき一年にならぬようにと…。
 昨年後半に、一人の方との出会いが与えられ、自らの心の浅さが、ボディーブロウーのように日を重ねるごと心に沁みてきます。人間に対する上っ面の貧しい理解が、その方を通しキリストに手を取られながら、遅きに失しつつも、少しずつ深みへと導かれていくのを実感しています。
 光となった「かなしみ」ということです。「かなしみ」を知らなかったと告白せざるをえません。「悲し」「愛し」「美し」「哀し」はみな、「かなしい」と読みます。4種類の「かなしみ」があるのではありません。「哀れ」は「あわれ」と読むように、慰めに満ちた詠嘆の心持が込められています。
 この「かなしみ」の中に命が宿る、というふしぎが聖書に満ちます。主は「悲しむ者は幸いである」と宣言します。今、み言葉の命に心を揺さぶられています。「主のうけぬこころみも 主の知らぬかなしみも うつし世にあらじかし いずこにもみあと見ゆ~」(讃美歌532)主は「かなしみの人」であることを心に刻みつつ日々を~と!