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6月23日「キリストの自由」
先週の夜の祈祷会で、信仰がもたらす「自由」について意見が交わされました。教会がイエス中心ではなく人間中心になり、信仰が「方法」に切り替わっていくことの危険性と、不自由さが分かち合われました。これは、初代教会も直面した問題でした。(使徒8:4〜25,19:11〜20)
重い病の中でさえ、感謝にあふれている方にお愛した時、その方が言いました。「この感謝は、神様に言わせてもらっているんです。」
信仰とは、努力して水を押して川にすることではなく、そこに聖霊のいのちの川があることを知り、その流れに乗っていくことです。その川が行き先を教えてくれるでしょう。その川の中にいれば、平安があります。川の流れは自由です。
考えてみれば、最初に信仰が与えられた時、私がした努力といえば、すべてを明け渡して人生を再設計していただこうと、キリストに白旗を上げたことくらいです。でも、それで良かったと思っていますし、それが良かったのでしょう。そこには何事にも縛られない自由がありました。これが救われるということだという確信がありました。
「本質における一致、行動における自由、あらゆることにおける信頼」という初代教会の姿を追い求めていきたいと、再び熱くされました。