宣教

9月22日「神の子として生きる」

ヨハネ12:20〜26
 主イエスは十字架にかかる直前、「栄光を受ける時が来た」と宣言します。何の落ち度もなく、不当な裁判で極刑に処せられることの、どこが栄光に満ちたことだというのでしょうか。
 神の使命に生きる時、「何故このようなことが」と思われるような試練に遭遇するときがあります。このような試練が取り去られればいいのに、と願って当然のことが起こる時、私たちは揺さぶられます。主ご自身でさえ、十字架にかかる前夜、ゲッセマネの園でそのように振る舞いました。
 日本で放映されたアニメ版の小公女のストーリーは、虐げられてきた少女が、その気高さを失わず、最後まで誇りを持って生きる姿が印象的でした。原作とは大きく違うこの少女の姿に、主イエスの姿が重なります。十字架の上でさえ、人を裁かず、赦しを願う。それは、神の子としての誇りを失わず、使命に生きる一人の人間の苦悩の姿が示されています。
 主のこのような姿をそばで見ていた異邦人の百人隊長が言いました。「この方こそまことに神の子であった」
 あなたは神の子です。生まれた境遇や通ってきた道は関係ありません。あなたがそのことを信じ、歩み始める時、それが現実になるのです。