宣教

11月3日「栄光を受ける時」

              ヨハネ12:24〜26
 主イエスが宣教の働きをされた期間は3年ほどだと言われています。つまり、主は余命3年の生き方をしていたと言えるでしょう。
 自分がもはや長くないと悟った人の生き様は、その人の本性を映し出すものです。ですから、死の前に残した宝石のような言葉が後の人々によって語り継がれているのです。そして、主そ言葉も、その生命の終わりを見据えてのものでした。
 一粒の麦が地に落ちて死ぬ。これは、天から来られた主が十字架にかかって死ぬことを指しているとされています。死ぬことは嫌なことで、できれば避けたいものであり、特に日本の場合、口に出すのもはばかられる忌むべきものとされています。しかし、主はこの言葉の直前、ご自身が「栄光を受ける時が来た」と、まるで十字架の死を喜んでいるかのような表現をされています。
 死を喜べる人はいません。別れがあり、不安があり、悲しみがあります。それは、主も同じでした。十字架の前夜、嘆き悲しむ主の姿はそのことを示しています。それでも、死は栄光だと宣言できる主の根拠はどこにあるのでしょうか。