宣教

3月8日「祝福の軽き荷を担う」

 イザヤ46:1~4  マタイ11:28〜30
 人生に「重荷」は付きものです。徳川家康の遺訓「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば、不足なし~」はよく知られています。息苦しくありませんか?
 イエス様は「疲れている者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。~わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と、わたしたちを招きます。
 ご自身との出会いに、わたしたちを招かれる主は、「あなたは、わたしと一緒に、わたしの荷を担い歩みなさい」と、言われます。強引とも思える仕方で近づいて愛の重荷を与えます。これが祝福です。
 イザヤは、「生まれた時から負われ~白髪になるまで背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」と御心を告げます。わたしたちが神を追いかけるのではなく、神がわたしたちを追いかけ、担われるのです。「主が共に―インマヌエル―」の原事実が、キリストに在って解放を与えます。主と共に愛の重荷を生きる時、人生は軽やかになります。キリストと共なる「愛」の荷は軽いのです。「愛がなければ無に等し」く、「最も大いなるものは愛」です。共に新しい旅立ちを!