宣教

3月29日「はじまりは神」

ローマ10:9〜17
 キリストを信じることにおいて、熱心さが注目されることがあります。一晩中祈ったり、断食したり、宣教に励んだり。そのような人を見ると、信仰深いと思いませんか。しかし、聖書の語る信仰とは、人間側の努力や才能に力点を置いていません。幸いなことに、この福音は、私たちを修行僧のようにしたいわけではありません。
 聖書が語る信仰とは、浅い、深いとランク付けをするようなものではなく、その浅い人のところにさえも、主イエスは来てくださって、その浅さ故に十字架にかかってくださったという、神の愛の側に力点が置かれているものです。ですから、私たちは、自らの罪深さを知って悔い改め、そのことを喜んで受け入れるだけで良いのです。人間側にできる反応があるとすれば、そのようなことだけです。
 かつて、その救いの大きさゆえに人々は、命がけで伝道しました。それは、喜びがあったからです。かつて、飲み食いも忘れて祈りに没頭した人々がいました。それは、神との交わりを喜んでいたからでした。すべては、神が与えてくださった御言葉を聞いて、喜ぶことからスタートしました。
 神はあなたを喜びとされています。あなたはそのことを喜んでいますか?