宣教

6月7日「背負ったままで」

マタイ11:28〜29
 教会の外に聖書の言葉を掲げているところがありますが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」という主イエスの言葉を掲示しているところが多いのではないかと思います。実際、その言葉に導かれて、教会に足を踏み入れ、主と出会う方々の話をたくさん聞いてきました。
 しかし、多くの人が人生の休憩所のようだと感じて扉を叩いたこの「教会」というものは、重荷を下ろす場所ではありませんでした。主ご自身も、休ませてあげようとはおっしゃっていますが、荷物を下ろしても良いとはおっしゃっていません。かえって、私の軛を負いなさい、と追加の要求が与えられています。ただでさえ苦しい荷物に加えて、キリストに学ぶ、という新たな世界観を加えることで、安らぎを得られるとおっしゃった主の真意は何でしょうか。
 キリストを知らない人から見れば、クリスチャンは日々の重荷に加えて、キリストを重荷として背負っているように見えるでしょう。しかし、実際にキリストに学びつつ生きる人々は、キリストが自分の荷物を背負ってくださっていることを知っているのです。だから、その人が休み、そこに安らぎもあるのです。