宣教

9月13日「確かな時の中に」

 創世記7:15〜16 フィリピ3:13〜14
  わたしたちの心は平安でしょうか?平安を求めているようで、自分の価値を自分以外のものに求めてはいませんか。豪華な沢山の宝石、肩書の多さが人の価値ではありません。「人の命は財産によってどうすることも出来ない」(ルカ12:15)と主は言われました。それはかえって渇きを増すのみだと。
 復活のキリストと出会うまでのパウロもそうでした。「生まれて8日目に割礼を…イスラエルの民…ベニヤミン族…ファリサイ派…教会の迫害者…」(フィリピ3:5~)と。人は装飾品によっては、平安も喜びも、真の命を生きることも出来ません。神の前に、神と共に生きること無しには。
ノアは神に生きました。箱舟に入った時、「主はノアの後ろで戸を閉ざされた」のです。一方、悲しいことにロトの妻は、ソドムから逃げる時「後ろを振り返ってはならない」との神の命令に背き後ろを振り返り、塩の柱になりました(創世記19:26)。
 「後のものを忘れ~目標を目指してひたすら走る」ことです。全き主の守りの中のわたしたちです。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(ルカ9:62)「わたしについてきなさい」と主は「今、ここで」招いておられます。