宣教

9月4日「常識破りの愛」

マタイ20:1~16
 聖書の「旧約」「新約」が「旧訳」「新訳」ではない理由をみなさんはご存知かと思います。そうです、これは契約の「約」です。神との新しい契約が、主イエスの十字架によってもたらされたからです。
 ところで、契約が新しくなったということは、ビジネスの現場がそうであるように、中身も変わるのでしょうか。実はそうではなく、契約内容が変わるのではなく、契約方法が変わったのです。
 ぶどう園の働き人たちも、農園のオーナーと契約した人々でした。契約内容は1デナリオンです。もちろん、早くから契約した人々は農園に入って多く働きました。一日の働きがもう終わろうかという頃合いに、何と新たな働き人たちがやってきたから驚きです。早くから来た人々は戸惑ったことでしょう。「こんな時間から来て!」と。
 仕事が終わり、いよいよ契約通りの報酬が割り当てられます。しかし、先に入った人々は、ほとんど働かなかった人々と同じ報酬であることに腹を立てました。この世界の価値観としては当然の主張です。
 しかし、聖書とその神は、因果応報の外にいる方です。そうでなければ、罪人は罰せられるべきでした。ところが、罰を受けたのは主ご自身だったのです。

※ 音声の録音状態が悪く、聞き取りづらいです。ご了承ください。