宣教

4月16日「新しく生まれる」

イザヤ43:18~20  ヨハネ4:7~26
 「新しいことをする」これは主イエスについての預言であり、御国の預言であり、古代イスラエルの復興の預言です。それらは全て新しかったのです。何に対して新しかったのかというと、見たことがないことが起こるという意味合いもありますが、何よりも人々の渇きに対して新しかったのです。
 サマリヤ人と付き合いのなかった、ユダヤ人。常日頃から差別的な扱いを受けていたサマリヤ人の、しかも女性であり、かつ倫理的にも問題のありそうな人を前に、主は新たに関係を持つことを求めました。
 この女性と同様に、ユダヤ教の教師に「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃったのは、彼が渇いていたからでした。必要なのは、水と霊による新しい出来事です。
 水は死を意味する場合と、人を生かす命を指す場合があります。渇ききって砂漠や荒野のような状態から、主が命を溢れさせるために水を与えようとされる。そのためには、水を通る、洗礼という出来事は、古い自分がキリストとともに十字架につけられる、ということです。
 教会が教会であるということ。それは、自らの罪を認め、いつでも十字架の前に進み出て、生けるいのちの水をいただくこと。これ以外にないのです。