宣教
8月4日「すべての民を弟子とする」
マタイ28:18-20
聖書は主イエスの周りに集まっている人々を「群衆」と「弟子」というように明確に区別しています。そして、主は群衆によって十字架につけられ、弟子たちは十字架から逃亡しました。どちらも間違っているように見えますが、根本的に違います。
群衆の興味はいつも自分に向いています。奇跡的なこと、驚くこと、利があること。そのようなことが起こらず、自分たちの思い通りにならなければ、去っていきます。単に間違えているだけではないのです。
しかし、弟子たちはすべてを捨てて従った、と事あるごとに描かれているように、興味は主にあります。思い通りにならなくても、去ることはありません。しかし、間違えることはあっても、弟子としての悔い改めがあります。
主は、この世界のすべての民を弟子にするようにおっしゃいました。普通に考えれば、何かしらの流派の師匠であれば、見込みのない弟子は取らないでしょう。まして、自分たちの流派を汚すような弟子を入門させることはないでしょう。しかし、主は「すべての民を」とおっしゃいます。その中には、見込みがなかったり、流派を汚すような人々も含まれているはずです。そこに、主の十字架の恵みと憐れみを感じます。
私たちは「弟子とする」という命令を受けているのであって「群衆を集めよ」とは言われていません。そのことをもう一度、考えてみましょう。