宣教

9月29日「人生の豊かさ ③」

マタイ5:21~26
 主イエスは律法を完成するために来た、とご自身の役割を明確にされたあと、殺人についての律法を例にあげて、完成形を示されました。それは、人々も驚くような厳しさでした。
 つまり、表に見える形での殺人はもちろんのこと、そこに至る過程としての怒りや恨みなど、表層に現れない部分にまで律法を適用されたのです。
 確かに、腹の立つことがあったとして、たとえそれが不当なものであったとしても、腹を立てたり、怒り、憎むことは、何の役にも立たない、と冷静に考えれば分かります。不当なことに対しては、そのことに対して声を上げれば良いのであって、相手を憎んだり、まして殺したりすることは、かえって自分が苦しくなる不利益なことである、というのが主の言わんとすることでしょうか。
 そして、律法の完成形を示された主は具体的な場面を例にあげながら、その解決を示されました。それが和解です。とはいえ、和解のために必要なのは、双方の歩み寄りではないでしょうか。そのために、私たちがすべきことを示されます。
 裁判に向かう道、そこで和解をする。これは、日常生活の中で直面する場面として、ユダヤの人々の心を捉えました。しかし、このストーリーの背後には、神の救いのご計画が隠されていたことを、人々はまだ知らないのでした。