宣教

「主の救いを見よ」

 出エジプト14:5~14  Iコリント10:1〜4 旧約聖書は、イスラエルという民族を取り上げながら、民族性ではなく、むしろ人間という存在について明らかにしているものです。イスラエルの人々が絶体絶命のピンチに陥った時、彼らの目にはファラオ率いるエジプトの精鋭軍が映っていました。その状況に恐れおののき、神に向かって叫び声を上げます。クリスチャンであろうとなかろうと、これが普通の人の反応だと聖書は言います。しかし、ここに一人だけ、全く違う反応をしていた人がいました。モーセです。彼の目は、ファラオではなく、救いの神を見ていました。その日、海は二つに割れ、イスラエルは神の救いを目の当たりにしたのです。
 使徒パウロは、この出来事を洗礼に例えて、イエス・キリストの十字架と復活に重ねます。海を背にして絶体絶命の問題を抱えた私たちは、世のしがらみや他人の目を恐れながらも、決心して洗礼を受け、神の救いである十字架の恵みを知り、復活の岸辺にたどり着いたのです。今や、死にすら勝利される方が生きて働き、私たちとともにいるという、全く新しい時代、死から命へと私たちの人生は移されたのです。