156センチの視線

8月14日「負けと思える中に、宝が隠されている」

オリンピックの真最中です。この原稿は11日に書いています。わたしは、他の人ほどは興味があるほうではありませんが、それでも、卓球の愛ちゃんが負けたのは残念でした。男子体操、女子体操も見事でしたし、競泳、柔道、ラグビー、カヌー~一つ一つに、その背後に、沢山の歴史があることを知ることは、大きな感動です。もちろん、その背後に、メダルどころか、オリンピックにすら出ることのできなかった人々、メディアで報道されない人々は、数百倍、数千倍いることは疑う余地はありません。
 妻が、先週の11日木曜日(実は今日なのですが)、中学校の同窓会に出かけました。その話をすると、「同窓会に行く人は『勝ち組』だんだよ!」と言われたとのこと。それを聞いてとても寂しい思いが襲ってきました。「人生に勝ち組も負け組もない」と思う傍ら、建前とは違う、悪魔に折を得させる、「勝ち組」という魂の空白が存在することに気づきます。
 しかし、イエス様の立っておられた場所は、いつも「負け組」の側であったのです。勿論、勝者であること責めるわけでは在りません。が、今一度、今自分のいる場所を考える時を与えられ感謝ました。 
 知らないうちに自分を責めてしまうわたしたちですが…。主のゆえに、「それでもわたしは、人生に、イエスという」ことができます。負けと思える中に、宝が隠されている人生が与えられているのです。