156センチの視線

4月9日「受難週の思い」

今日9日は「棕梠の主日」、イエス様がエルサレムに歓呼の声「ホサナ」(主よ救い給え)をもって入城した日であり、受難週が始まります。この週の金曜日、喜び迎えた人々は、「十字架につけろ」と叫びました。痛みも自己矛盾も感じることなく。
 サラの散歩をしながら、恐る恐る葡萄の枝を剪定しながらそのことを考えて過ごしていました。(今週書く予定だった「コーチング」は少し先に延ばすことにしました。悪しからず。)
 自分の姿が見えなくなってしまう恐ろしさを、受難週の出来事は明らかにします。群衆はもとより、弟子たちに、ペトロに、ユダに自分が重なります。そこに、まやかしの自分の論理に気付かない自分が、彼らと一緒にいます。
 葡萄の木は、見事に幹だけになりました。枝は全くなくなりました。心細くもありますが、不思議なほどに落ち着いたたたずまいとなりました。おそらくこれで正解なのでしょう。今までと全く違う生き方がそこに展開されているように見えます。これが期待通りの結果になるかどうかは定かではありませんが、またとない学びの時となりました。たった二本の十字に組み合わされた木が、全人類の救いになったことを思いつつ、受難週を心に刻み「単純」を歩みたいと願う日々です。