宣教

8月6日「神の名によって」

出エジプト3:9〜15 使徒4:12
 聖書における平和とは、戦争のない状態を意味していません。なぜなら、国々の戦争がなくても、人と人の間に争いや憎しみがあるならば、本当の意味で平和とは言えないからです。
 いつの時代も、聖書は奴隷状態からの解放を描くことによって、同じような境遇の人々に希望を与えてきました。エジプト人の奴隷として生きるイスラエルの人々の叫び声は、ついに神のもとに届きます。その叫びの根幹にあったのは、人としての尊厳が侵されていることでした。不当な差別と不当な労働の奥には、人として認められていないことへの苦しみがあったことでしょう。そこに神の名が示されます。
 家庭の中でも、国の中でも、世界の中でも、一人の人の尊厳が侵されていることは、軽重は別として、起こり得るものです。そして、主イエスご自身も、その差別に向き合われました。被差別者と交わり、自らも差別を受けました。その方の生き様こそ、まさに神の名そのものだったのです。
 人の理性が理想とされた時代は過ぎ去り、今こそ、主に立ち返る時です。その名の他に、人間が救われる名はないのですから。