宣教

12月10日「悲しみも祝福」

イザヤ40:6〜8 マタイ5:4
 わたしたちは、自分の経験、フィルターを通して事柄を捉えようとします。そんな中で御言葉は、わたしたちの思ってもみない方向を指し示します。御言葉を前に、つまずきを感じる時は、自分の感覚によらず御心を尋ね求めを祈ることです。大きな「悲しみ」を考える時、まず「死別」「別れ」が思い浮かびます。それならば、悲しくない「死別」「別れ」とは何でしょうか。
 そこにあるのは、乾いた潤いを失った心、愛のない生活、無関心が思い浮かびます。実は、悲しみの深さは、共に生きた愛の豊かさなのです。
 神様は、ご自分の御子をこの世に送るという別れを通して、わたしたち人間に対する愛を示されました。そればかりでなく、御子の十字架の死までも引き受けられました。この「悲愛」こそ御心です。
 「悲しむ人々の幸い」とは、この愛に支えられている自分と出会うことです。「草は枯れ 花は散る」のですが、主の約束、「インマヌエル」の神の現実の中にわたしたちがいます。御言葉、御心を生きる者は幸いです。 「主にありて悲しむ者の幸いは 共に生きたる愛の証ぞ」インマヌエルの恵みの中です。