156センチの視線
3月25日「癒やし手の条件」
津田キリスト教会の女性からメールがきました。東京で開かれた癒やしのワークショップで「弘前の方々にお会いしました」ということでした。その方も、癒しの祈りを通して解放された経験をお持ちでした。そして、自分の経験を証ししたいという祈りをもっていたところ、東京でスタッフとして手伝って欲しいという召しがあったのです。
その方は神学校で特別な訓練を受けたわけでもなく、聖書の知識が学者のようにあるわけでもなく、ただ神を信じ、人々を愛する思いを与えられ、癒しの祈りを通して解放されたことで、そのことを人にもしたいと、「与える」奉仕に導かれました。それは、彼女の思いと主の計画が一致した瞬間であり、それこそ主が望むことであって、人々が解放され、弟子になっていく姿そのものでした。
弟子になるというのは、やりたくないことを我慢してやることのように考えていた時期がありました。しかし、主はその人に個性を与え、その人の思いを超えて豊かに叶えることを通して、弟子になる喜びを教えてくれるのだと示されています。祈りの人は祈りの人に、伝道の人は伝道の人に、教師は教師に、しかしそのすべては人々の解放に向けられているのです。
今、癒やしと解放が弘前に満ちていきます。