宣教

7月8日「走り寄る神」

哀歌3:22〜27 ルカ15:20〜24
 正しいことを語っても人を悔い改めに導くことは出来ません。悔い改めという新しい命は、愛のみが為しうることです。それも「朝毎に新たになる」「慈しみと憐れみ」によるのです。
 有名な、イエス様による「放蕩息子」の譬えは、その神様の真実を鮮やかにわたしたちに明らかにします。有り得ない裏切り行為をもって、後ろ足で砂をかけ出て行った息子の帰りを、毎日待ち続ける父。ボロボロになって帰って来るであろう息子を抱き止めるべく、朝毎に戸口に立って待ち続ける父!
 福音書の記事は、主イエス様が、父の思いをこの地上で生きる姿を現しています。「何とも間抜けな姿」ではありませんか!しかし、それ故にこそ、救いの出来事がわたしたちの現実となったのです。
 神ご自身が、愚かな放蕩息子を日毎に、門に立って待ち続けるのです。そればかりか、父の方から息子に走り寄るのです。父が走り寄るその姿こそ、十字架によって示された神の愛です。新しい生は、「子の悔い改め」では決してなく、「父の愛」によって実を結ぶのです!「砂をかけ走り去りたるこの我を 日毎門にて待ちたりし父」 神の愛たるを知れ!