宣教

1月27日「回復された関係」

創世記18:1〜15  ヘブライ11:10〜12
 宗教は人々の罪に焦点を合わせます。宗教指導者である律法学者やファリサイ派の人々は、血の滲むような努力を重ねていたため、努力できない人々を受け入れることができませんでした。しかし、主は人々の罪を不問とし、その人本来の姿に焦点を合わせます。そして、私たちの本来の姿とは、神の似姿につくられた神の子どもとしての価値にあります。
 アブラハムの妻、サラは高齢で、なおかつ不妊の女性でした。子を生むことは不可能と考えられていたし、自らもそう思っていました。そしてあの日、主の御言葉を疑い、主の前に偽りを述べて罪を犯しました。それは、旧約聖書に記されているとおりです。彼女の罪は罪として記録され、残っているのです。それは彼女にとって、また世間体を気にするならば、消してしまいたい過去かもしれません。しかし、神である主はそのことをあえて残しているのです。なぜ、彼女の失敗を永遠なる記録として残しているのでしょうか?
 あのゴルゴタの丘の上に十字架が立てられ、神の御子が血を流した日まで、彼女の記録は罪深い女性という失敗の記録でしかありませんでした。しかし、その失敗は主イエスの血潮によって清められ、今や宝石のように輝いて人々に神の寛大さと栄光を伝えています。「信仰によって」神は罪を不問にするばかりか、その失敗をも輝かせてくださるお方なのです。