宣教

10月20日「何もなくても大丈夫」

ヨハネ6:27〜40
 主イエスはご自身を「私が命のパンである。」と宣言し、ご自身がどのような方か人々の明らかにされました。そして、そのことを信じる人々は決して飢えることがなく、渇くこともないと約束されたのです。
 ところが、人々の興味は現実の生活の中で消費する食べ物と目の前にいる生きている神の御子の存在とをつなげて理解することができませんでした。なぜなら、直前に起きた大勢の人を満腹にするという出来事があまりにも印象的だったからです。
 主が「朽ちる食べ物」を追い求めていくことの危険性を指摘したのは何故でしょうか。それは、食料がなくなり、病が癒やされず、神の声が聞こえなくなるほどの出来事が襲いかかる時、人は簡単に神のもとを離れていくことをご存知だったからです。
 「人々はしるしを欲しがる」と主は警告されています。もし、あなたに何のしるしも与えられなかったら、その時、私たちは何に依り頼めばいいのでしょうか。主はそのことを教えるために、ご自身のところに来るようにと招かれているのです。
 「私はある」それが神の名です。飢えの中に、渇きの中に、病の床に、絶望的な状況の中でさえ、主は共におられる。それがパンの与える力です。