宣教

3月15日「示された一本の木」

出エジプト15:22〜27
 聖書は人の心の移り変わりを誤魔化さずに描いています。例えば、イスラエルの人々は奇蹟的な救いを体験し、主なる神を力強く賛美しますが、その三日後には不平で満ちていきます。問題が解決しても、また次に問題が起こるという、苦い水を飲み続けるような繰り返しこそが人生であると言われているような気がします。
 しかし、その苦い水を甘い水に変える方法があると聖書は教えています。そのために示されたのは一本の木でした。飲水が欲しかった人々に与えられたのは、水ではなく木だったのです。その木を苦い水に投げ込むと、水は甘く変化しました。このことは私たちに何を教えてくれるでしょうか。
 主イエスは救い主です。私たちに苦い水を飲ませたがっている方ではなく、苦い水を甘くしたいと願っている方です。なぜなら、「わたしはあなたをいやす主である」と約束されている方だからです。人々は飲水が欲しかったのですが、木を与えたように、人々は力強い王を求めましたが、与えられたのはロバにまたがる柔和な方でした。そして、結果的に水は与えられ、十字架によって救いは与えられました。
 苦い水という名の問題に、主の十字架を投げ入れる。実は、それこそがオアシスへの近道なのです。