宣教

6月21日「赦されて生かされて」

ヨハネ8:1〜11
 姦淫の現場で捕らえられた女性は今、人々の前でさらしものになっています。犯した失敗はあれど、そのことを他の人に用いられて、道具のように扱われているのです。その目的は、主イエスを貶めるためでした。
 人の罪の深さは何と深いのでしょうか。コロナウィルスという武器を手にして、人々が暴徒と化しているような状況見る時、この姦淫の女性が目に浮かびます。 この聖書のテーマは、裁くのは誰か、ということだと思います。神の言葉が引きずり降ろされ、人間が神となって以降、現在に至るまで、このテーマは私たちにとって非常に大きな問題を提起しています。それは、正義を振りかざす基準が、人によって違うということです。
 聖書に精通した律法学者たちは、神の言葉の解釈を主に投げかけます。しかし、神は神の言葉を解釈すること以上に、神の前に罪を犯していないものがいるのかどうかを確認するのです。
 もし、赦せない人がいるとき、あなたがその人に石を投げることを神がお喜びになるかどうか、もう一度考えてみてください。神は人々に石を投げず、その石を自らお受けになりました。それは、あなたのため、その人のためでもあったのです。