宣教

9月20日「今、ここにある門」

マタイ7:13〜14
  イスラエルの民は流浪の民で、遊牧民族でした。神を礼拝するための神殿はなく、移動式の幕屋が彼らの拠り所だったのです。そこには唯一の門があり、その門を通らなければ、至聖所へと至ることが出来ません。それは、私を通らなければ、誰も父なる神のもとへ至ることは出来ないとおっしゃった主イエスの到来を予感させるものだったのです。
 しかし、唯一の門をくぐっているのに、目の前にいる唯一の救い主に気づかなかったのは皮肉めいたことです。それほど、狭き門は狭いのです。
 ルカによる福音書では、同じ御言葉に「努める」という言葉が加えられています。狭い門を通ることは、並大抵のことではありません。発見しにくく、マイノリティの香りが漂い、努力しなければ通れないような門を、主は命に至る道として用意したのでしょうか。神はそれほど意地悪なお方なのでしょうか。
 聖書では、罪の発生原因は「肉」であると表現しています。狭くて人が通れないほどの門を通れば肉体はどうなるでしょうか。肉は裂け、血は滴り落ちるでしょう。まるで主の十字架のようです。
 狭き門は罪を砕く門。私たちをご自身の血潮で清めるため、主は招いておられるのです。