156センチの視線

8月8日「主の安息」

 「安息日を喜びの日と呼ぶこと」(イザヤ58:13)とすべく、モーセを通して十戒が与えられて以来、ユダヤ人は十戒の第4戒、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(出エジプト20:8 申命5:12)を命がけで守ってきました。
 「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、第七の日を神は祝福し、聖別された。」(創世2:3)ことを心に留めるためです。初代の教会も(主ご自身も弟子たちも)「安息日」を守ってきたことは疑問のよちはありません。(マルコ2:23他)
 今日、教会は、この安息日に代わり、主の復活を覚え、日曜日を「主の日」として礼拝を捧げ続けてきました。主ご自身が、「安息日は人のためにあり、人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:23~)と言われた時、従来に増していっそう豊かで、真の喜びに満ちた神の祝福の「安息日」をお考えだったのではないでしょうか。
 「ユダヤ人が安息日を守って来たのではなく安息日がユダヤ人を守ってきたのである」の指摘に深くうなずくところがあります。同じことがわたしたちにも言えます。主の復活を覚える「主の日」、イスラエルも教会も、「一つの神の民」「神の家族」として、共に真の喜びの安息の日を祝う者となるために、「主よ、御国を!」の祈りに。