156センチの視線
9月12日「祝福を生きる」
毎日聖書を読み、聖書を語るために学び、聖書を生きようと祈り、聖書に従うべく自らを整える。そのような日々の中にいると、自分が御言葉と共に歩んでいるかのように錯覚してしまいます。
テレフォンバイブルの準備をしていた時、「敵を愛し、自分を迫害する人のために祈りなさい」(マタイ5:44)の御言葉を与えられ自分の今日を省みました。実体の伴わない自分を示され悔い改めの機会を与えられ感謝しました。小さなことに「怒り、腹を立てる」のでは、相手と同じかそれ以下の存在でしかないことを示されたのです。
御言葉を、生きる人間になるために、その当事者のために「祝福を祈る」ことへと方向転換しました。そのことを義塾の礼拝で話しました。授業に行くと生徒が、「先生、今日の話,いがった!」と。夏休み以後度々言われます。
御言葉は、それを「生きるわたしの為に」あることを再確認し励まされています。「キリストを生きる」ことには程遠くとも、キリストと共に-インマヌヱル-を生きる希望は約束されています。不可能に挑戦するための信仰の人生です。「腹が立ったら、侮辱されたら」不本意であってもその人のために祈ることへと幾度目かの舵を切ることにしました。人生が少し軽やかになりました。 石川