宣教

11月7日「知性を超えて」

コヘレト3:11  ヨハネ11:25~26
 日本の方々に伝道すると、ほとんどの方がこうおっしゃいます。「うちは仏教なので。」そして、そのような方々のほとんどがこうもおっしゃるのです。「天国の誰々は~」と。
 私たちは有限な存在で、無限を理解することはできません。しかし、理解出来もしない無限や、永遠といった言葉が存在するのはどうしてでしょうか。その意味も知らず、到達したこともなく、計り知ることもできないものが、どうして言葉となって存在できるのでしょうか。これはとても不思議なことです。
 聖書は、このような永遠を思う私たち人間の心は神が与えたもうものだと教えています。神ご自身は永遠の方であり、その似姿として創造された私たちは、その方を完全に理解することはできずとも、その方が有限ではないことは理解できるのです。
 主イエスは死んだ弟ラザロを悼むマルタに言いました。「信じるか?」マルタは弟の死という現実を受け入れよう、神の言葉を理解しようと必死でした。しかし、主が問うのは知識や理解ではなく、信仰なのです。
 あなたも今日、主に問われています。死の先にあるのは永遠のいのちであるという信仰を。