156センチの視線
8月21日「戦がなくても」
中学生の頃、スタジオジブリの「火垂るの墓」を学校で観ました。敗戦を覚える今、子どもたちと観ることにしました。
30年近く前に観た映画ということもあり、印象もだいぶ異なりました。戦争の悲惨さや、人を狂わせる酷さは相変わらずでしたが、特に印象に残ったのは、両親を失った主人公と幼い妹が世話になった親族の家の描写です。
叔母は彼らに辛く当たり、家から出ていくようにプレッシャーをかけ続け、ついに彼らが出ていこうとすると「あ、そう。」とそっけない様子。結果として、彼らは家の近くの壕で自活し、妹は栄養失調で死んでいくのです。
この描写には戦争の表現よりも多くの時間が割かれていました。現在であれば「保護責任者遺棄致死」となるであろうネグレクトに対し、叔母の娘からは「お母さん、またひどいこと言ったんでしょ。」と、愛の欠如が日常的であったことを示唆するメッセージも。
結局、人の罪は戦時下であろうとなかろうと変わらず存在し、その与える報酬は死であるという聖書の真理は変わらないことを再確認しました。
日々のニュースで取り上げられる、子どもたちの死。戦争のない日本でも、同じことが起きているのです。 牛山