宣教

3月5日「神のわざとは」

ヨハネ9:1~3
 何かが起こると、それが悪いことであればなおさらのこと、私たちはその原因や因果関係を探ろうとします。それは大事なことであり、解決の糸口になったりするからです。しかし、弟子たちはそういった類の質問ではなく、興味本位の質問を主イエスに投げかけました。そこに、目が見えない隣人を憐れむ視点はありませんでした。
 主は驚きの返答をします。「神の業がこの人に現れるためである。」では、神の業とは何だったのでしょうか。
 生まれつき目の見えない人が見えるようになったこと。それはとても嬉しいことでしょうか。聖書を読む時、癒やされた人の記事を読むと「良かった」と思いませんか?彼も主に癒してもらった一人でした。
 癒やされた目で彼が見たものは何だったのでしょうか。色づく世界でしょうか。生き生きとした人々の往来でしょうか。そうではなかったようです。
 実のところ、状況の変化が与える幸福感は一時的です。しかし、私たちの救い主、イエス・キリストの与える変化は永遠です。
 神の業、それは私たち一人ひとりを本当の意味で解放する出来事なのです。