156センチの視線

3月12日「主の祈り」

年齢を重ねるに従い、『主の祈り』が、「わたし」と、「わたしたち」を、主に立ち返らせる「王道」であることが、少しずつ解かるようになってきました。そしてこの祈りを祈ることを許されていることを、日々喜べるようになりました。
 朝、歯磨き洗顔をして、礼拝堂に向かいます。讃美をし、感謝をしてから「主の祈り」をします。
この祈りこそ、神の御心と、わたしたちを一つに結ぶ祈りであることを日々に思い知らされ、御手の中なる今に感謝が溢れます。
 「神」は、「わたしの神」であるとともに、「わたしたちの神」-ソヴィエトの、中国の、北朝鮮のウクライナの…、全世界の神であることは何という幸いでしょう。
イエス・キリストが、ご自分と一緒に、「わたしたちの神よ」と、祈るようにわたしたちを招いておられる恵みに、心躍ります。
 ルターは、「イエス・キリストは祈る方です。そしてわたしたちはキリストのとりなしの祈りに仲間入りするのです」といっています。
 わたしたちは、神がイエス・キリストによってその祈りを聞き届けられるお方であり、キリストの祈りは、世界の初めから、永久から永久に聞き届けられているのです。その祈りの中の我らです。 石川