宣教

3月19日「いつも目の前に主がおられた」

使徒2:25~28
 わたしは使徒言行録でペトロが引用している詩編16編の言葉が好きです。昔からこの聖句が好きだったという訳ではなく、献身し神学生になるということで急いで聖書を開き、この聖句を見つけたときに、「主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない」というこの言葉がいいなと思ったからでした。ただ「神様がわたしと一緒にいてくれれば動揺しなくなるのかな、そうなればいいな」としか思っていませんでした。「いつも主が目の前に見ていた」という言葉も単なるダビデの信仰的な表現であろうなと思っており何にもピンときていませんでした。
 しかしイエス様との本当の出合いの後にこの聖句が光を放ち、全く違うものとして自分に及んできたのです。「いつも主はわたしの目の前におられたのに私は見ていなかった。主はいつもわたしの目の前にいてわたしを見ていて知っていてくださったのに、わたしはこの方を無視して、自分のことや、他者のことばかりを気にして生きていた。だからわたしには平安がなく動揺ばかりしていたのだ。」「価値もないクズのわたしのために死んでくださったこの方がわたしの目の前に今も共にいてくださる。」この真実にわたしは溶かされて、この方のために命を用いて頂きたいと思うようになったのです。