156センチの視線

3月26日「荒唐無稽な道」

 先週の刑務所教誨では、一人の方が何度も何度も熱心に質問をしてくださいました。なぜかというと、次の月には出所で参加できないから、ということでした。
 「私はイエス・キリストを信じてやり直したいんです。聖書のすごさも先生から色々と聞いたり、自分で様々な本を読んだりして、キリスト教について考えてきました。でも、どうしても本当かな?と思う箇所がいくつもあるんですよね。こんなに信じきれない自分でも、教会に行っていいんでしょうか?」それが彼からの最後の質問でした。
 そこで、全員でマタイ28章を開いて、ガリラヤの山で弟子たちが復活の主イエスに出会う場面を読みました。そこには、目の前に主がいるのに「疑う者もいた」とあるのです。それでもなお、疑う者を含む全員に主は宣教の担い手となるよう命じ、世の終わりまで共にいると約束しているのです。
 「だから大丈夫です。神が人となり、命を捨て、復活し、今も生きて一緒にいる。こんな荒唐無稽な話を納得するのはほとんど無理でしょう。疑って当たり前です。でも、もし、想像を絶するような体験を期待するならば、荒唐無稽な人生を歩みたいなら、この方を信じる道こそ、そこに至る道です。」
 そして、出所を控えた方の肩に手を置き、全員で共に祈りました。  牛山