宣教

10月29日「十字架の赦しの神秘」

マタイ27:27~31 ヨハネ3:16
 イエス様の十字架の赦しについて、ある神父が残した言葉が忘れられません。「われわれは、肉となりたもうた神であるキリストが、イスラエル民族の最高の倫理的、宗教的権威を握る人たちによってとらえられ、詐欺師、うそつきとののしられた事実だけでも、どれほどの侮辱と辱めをともともなう卑下であった想うべきである。福音書の叙述になれてしまうと、それがどのようなものであったかを、十分に考えない。まして、これらの場面に加えて、むち打ちの刑を受けて痛々しい状態にあったキリストをこのようにあしらうことの残酷さ、イスラエル(ユダヤ)人の群衆の侮蔑と狼藉、奴隷や盗賊にしか用いないいまわしい架刑台上に裸をさらされること、臨終にもだえる者に対する嘲笑、愚弄、侮辱などを想いうかべなければならない。・・・中略・・・これらの虐待は、人類の救い奥義の目的からすれば、必要であったわけではない。イエス様は知りつつ、自由に選んだのである。イエス様が人類の罪を消すために、血なまぐさい犠牲をささげなければならなかったとしても、この至上の犠牲が、これほどのさげすみのなかで行われる必要は少しもなかったのである。われわれは、これを神の愛の神秘としか見ることはできない。」神様の愛が、それほど深いことをあらためて知らされる。