宣教

3月17日「神の見ていること」

 ヨハネ9:1-3
 身体に障害を抱えていたり、何か不幸な出来事が起こるとき、それは罪の現れであると信じられてきました。生まれつき目が見えない人を見た弟子たちは、彼もまた、自身の罪か、近親者の罪の影響を受けたのだろうと考え、主イエスに尋ねました。
 今回の聖書箇所には、目の見えない人に関わる多くの登場人物が出てきます。弟子たち、近所の人々、両親、ファリサイ派をはじめとするユダヤ人たちです。彼らの姿は主の姿と対象的に描かれていることにお気づきになるでしょうか?
 彼の身の上について尋ねてくる弟子たちに、主は次のようにおっしゃいました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(9:3)主はこの人にこれから起こることについて語られました。しかし、他の登場人物たちは、すべて過去について話をしているのです。彼の生い立ち、生活、目の癒やされた理由や方法、モーセのことなどです。
 主が人をご覧になるのは、いつでも未来についてです。あなたがどんな過去を持ち、どんな現状を過ごしているのか、その理由や経緯については、主にとってこれから起こる素晴らしいことの前触れに過ぎないのです。