宣教
6月9日「何時でも、どこでも」
列王下5:14 ヨハネ9:1~12
生まれつき目の見えない人の前を通った時、弟子たちが、「この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですかそれとも両親ですか。」と主に尋ねました。2000年前も、今日も変わらぬ問いで、今日のわたしたちの問いでもあります。それに対して主は、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と明言されます。
大学で福祉を学ぶ前から、幼い時からのわたしの内なる問いでもありました。ハンセン病の方々との出会いを通して、生涯のわたしの問いともなりました。「なぜ?何故?ナゼ?」その問いは、わたしの人生に、影のように付きまといました。それは、生きることへの問いとなり付きまといました。
人生に問いを発する、不条理を受け止めきれないわたしがいました。大学に入っても、福祉を学んでも、小さな明かりすら見えない、人生にへばりついた影でした。しかし、「神の業がこの人に現れるため」と言われる主の言葉に、「問われている自分」気づきました。自分に与えられた人生を肯定することをせず、他者に向かうことが出来ないと知らされました。主イエス様を通し、「わたしがわたし」である「貴い自分」信への道が開かれていたのです。