宣教

7月21日「祈りの本質」

マタイ6:5~13
 かつて、ユダヤ教の偉大な教師たちは多くの弟子たちを抱え、それぞれに独自の祈り方を持っていました。そこで、弟子たちは自分たちにもイエス流祈祷法が欲しいと願ったのです。そこで、主イエスは弟子たちをはじめ、群衆に主の祈りを教えられたのです。しかし、主はどのように祈るべきか、その方法論を教えたのでしょうか。
 私たちには「絶えず祈りなさい」という言葉が与えられており、それは神が私たちに求めておられることだと聖書は教えています。では、主の祈りを1日中、絶え間なく口にして、唱えることを主は「絶えず」とおっしゃるのでしょうか。「くどくど」と祈っていることにはならないのでしょうか。
 聖書は私たちに物事の本質を教えています。ですから、文化や方法論が違っても通用する真理だと言えるのです。では、「主の祈り」の本質は何だったのでしょうか。
 まず、御名が崇められますように、から始まります。これを方法論として捉えるならば、そのまま暗唱すればよいでしょう。記憶するには良いかもしれません。では、この言葉から本質を捉えるとするとどうでしょう。もし、この地上を見渡して、自分自身の胸に手を当てて、正しく御名が崇められているならば、崇められますように、と願う必要はありません。実のところ、主の御名は未だにあの十字架の丘の上と同じ状況にあるのです。
 主の祈りはまずそこから、そして「絶えず」そこからなのです。