宣教
7月28日「その人たちの信仰を見て」
マルコ2:1~5
天地を創造された私たちの父である神様は、なぜイエス様を送って下さったのでしょうか。
4つの福音書の全てに示されているように、それは真の神を知らせて、私たちを罪から解放し、真の自由をもたらすためです。そして、その神様が遣わしたイエス様が神の独り子であり、唯一の救い主であることの正当性と証明は、福音書に記された具体的な生活指針と病の癒し、もろもろの悪霊からの解放の業に凝縮されています。とりわけ病の癒しと悪霊の追い出しに関する記述は、マルコの福音書に限って言えば全16章の内、1章から始まり10章までにおいて少なくても12か所(他に、自然をもご支配なさる記述5か所、死者-ヤイロの娘-の復活1か所)あります。
主の憐みと真実さを示すこれらの奇蹟が起こる背景には、必ず「信じること」があります。さらに、それは信じる人その本人の信仰とその周囲(信じる共同体全体)の人々の信仰、つまり、他者のための取り成しの祈りの信仰に関わるものの二つに大別できます。
ところで、私を含めて多くのクリスチャンは前者と後者を優劣関係において考えることはないでしょうか。つまり周囲の信仰(取り成しの信仰)ではなく、本人の信仰の方がクリスチャン生活を送るうえでより優れたものだと。したがって、聖書では本人の信仰よる奇蹟の業の記述の方が多いはずだと。しかし、この印象は、やはり印象にすぎませんでした。