宣教

8月25日「主の祈り II」

マタイ6:9-15
 主イエスが人々に教えられた「主の祈り」。これは、他の聖書の御言葉と同様に、方法論ではなく本質論を語っておられることを分かち合いました。
 まず、神を崇める根拠としての十字架と、御国の支配が私のところに来るように、と願う祈りから始まって、まことの自由と平安が神のもとにあることを確認しました。
 続いて、日ごとの糧と人間関係についての祈りが続きますが、主は天の父が必要なものをすでにご存知だと教えてくださいました。では、その上で祈り求める、私たちに必要な日毎の糧とは一体何でしょうか。
 主イエスはご自身をいのちのパンだと語られました。また、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる、とも言われています。あなたは、毎日の食事や衣服のために、本気で祈ったことがあるでしょうか。仮に無かったとすれば、祈ってもいないことが与えられた時、それは父なる神が必要をご存知であることの何よりの証明となるでしょう。しかし、霊の糧はいかがでしょうか。
 また、次に人間関係のことを祈るように促しています。社会性のある生物として、人間には人間関係が切っても切り離せないことだからでしょう。それも、赦す、ということがすべての人間関係において重要なキーワードになっています。なぜなら、主はそのことしか祈りに含まなかった上に、その補足までしておられます。
 その補足とは、再び十字架を想起させます。十字架に始まり、十字架に終わる。これが「主の祈り」です。