156センチの視線
9月15日「逃れの地へ」
最近、ニュースで話題の兵庫県知事ですが、世間ではパワハラという言葉が大きく取り上げられています。しかし、この問題の本質は別のところにあると思います。ほとんどのメディアでは、知事の人間性が大きくフォーカスされていますが、問題はそこではなく、特定の人物に権力が集中してしまう、という構造上の問題だと思います。そして、それは兵庫県だけではなく、日本の至る所に見られる現象だと思います。
このようなことに気付けるようになったのも、教会の本質を聖書から学ぶことができたからだと思います。しかし、自分ができているかどうかは別の話です。
王座にしがみつく兵庫県知事の姿を見ていると、他人事とは思えないのです。自分の人生は自分のもので、王座は決して離さず、好き放題に生きる。当然、口から出る言葉も自己中心から出るものばかりで、人を傷つけても何とも思わない。本来、その王座と主権は主なる神のものであり、明け渡さなければならないはずなのに。
しかし、自分で自分の人生を完璧に統治しているとは言い難い、いやむしろ、崩壊しているというところまで連れてこられた時、白旗を上げて主を王座に迎え入れた時から、本当の人生の豊かさを知りました。
これだけ大きく取り上げられた彼は、あらゆる方面で再就職は難しいでしょう。今、彼が主のもとに導かれ、悔い改めて救われることを願ってやみません。