宣教
10月20日「人生の豊かさ④」
マタイ5:33~37
一切、誓いを立ててはならない。この箇所は、理解がとても難しいところです。なぜなら、他の箇所に誓いを立てている人々の姿が存在するからです。
そもそも、人間が何のために誓いを立てるのでしょうか。天地神明に誓って、神仏に誓って、など、ほとんどの場合、疑われている自分自身やその主張の正しさを証明するために誓うことをするのではないでしょうか。それは日本に住む私たちだけではなく、世界中で、またかつてのユダヤの民もそのようにしていました。そして「誓ったならば、必ず果たせ」という律法によって、その誓いを信用できるものとする努力が続けられたのです。
しかし、主イエスは「一切、誓いを立ててはならない。」とおっしゃいました。それは、人が自らの正しさを神の名を用いて証明しようとする試みだからです。神はご覧になっているのです。髪の毛一本さえも。それでもなお、あなたは自分の正しさを証明するために、神の名を証人として口にすることができるでしょうか。
もし、あなたが誓いを立てても問題のない人であるならば、あなたのために救いは必要なかったでしょう。主が地上に来られることもなかったでしょう。まして、十字架で罪のない主が、刺し貫かれることもなかったのです。しかし、それらのすべては現実となりました。
私たちは誓えないのです。そのような存在ではないのです。でも、主はそんな私たちのために、証人になろう、と命を差し出したのです。