宣教
1月26日「憐れみの十字架」
マタイ7:1~6
人に対して納得ができない時、思い通りにならない時、どのように対処していますか。飲み会に行くと、そこにいない人の悪口ばかりで、もし自分がいなければ、同じように言われているのだろうと感じたものです。かくいう私も、人の批判については天才的です。また、好きなチームの評論についてもプロ級です。キリストを信じてもなお、人を裁くことをやめられない自分に出会っています。
そんな時、思うのです。私は「カルバリの愛をまったく知らない。」これは、エミー・カーマイケルの「カルバリの愛を知っていますか」に書かれている言葉です。様々な状況が書かれ、その対処を通して、いかに自らが十字架から遠ざかっているのか。その愛を理解していないのかが書かれ、胸に突き刺さります。
事実、私たちは罪人でありながら、その頭でありながら、あの十字架の犠牲によって、何とか赦していただいただけに過ぎない存在だということ。その事を忘れる時、それが相手を裁く時です。
主イエスはそのことを、目に丸太が入っている、とユーモアたっぷりに語られました。人々はその姿を想像して、大笑いしたことでしょう。そして、人を裁く時に思い出したはずです。そして今や、その笑いは悔い改めに変わり、思い出すのはカルバリの丘での出来事です。
裁く御方を裁いてしまったこと、その罪の深さを思う時、裁く心から解放され、まことの愛と平安があなたを包むのです。