宣教
2月16日「み足のあとを」
マタイ7:13~14
難関校に入る時「狭き門」という言葉をよく耳にしました。倍率が高く、一握りの優秀な人しか入ることを許されない場合に使われる言葉でしょう。では、主イエスはこの言葉を誰に向けて語られたのでしょうか。
主の時代、信仰的にも、倫理的にも優秀な人々がいました。ファリサイ派の人々です。また、律法学者の中にも優れた人物がいたことでしょう。これは、誰でもなれるものではありませんでした。ファリサイ派には超人的な努力と忠実な信仰が求められ、律法学者は聖書をすべて暗記し、理解した上で、民を導く法の整備ができる人たちです。まさに、狭き門をくぐり抜けた人たちでしょう。
一握りの優秀な人々、という価値観で「狭き門」と言うならば、山の麓で主の言葉を聞いていた人たちは広い門に位置する人たちであったのは間違いありません。では、主が望まれるのは、一部の優秀な人達なのでしょうか。
そうであるならば、主はなぜ罪人と一緒に食事をし、病に冒され、律法を守れなくなった人々に寄り添ったのでしょうか。それは「狭き門」をくぐるために必要なのは、人間的な尺度で言う優秀さではないからです。
主イエスを信じて従う人生は豊かにされます。しかし、迫害があります。この世の価値観とは異なる側面を多分に有するからです。そして、それらを実践するとなれば、どうしても必要なことがあります。それは聖霊を受けることです。