宣教
10月14日「ここにも命の時が」
エゼキエル37:7~10 ルカ12:31~32
聖書はわたしたちに、「神は愛である」こと、わたしたちは神に愛されていることを、一片の曇りなく伝えます。これを忘れる時、わたしたちに混乱が生じます。いつも、「わたしの思い」が人生の中心であり、「わたしの理解」が人生の現実であるからです。「わたしの心と目に映る今」以外に、真実の現実、「神の恵みの今」があることを忘れてはなりません。
エゼキエルは、枯れた骨でいっぱいの谷に立ちました。命の失せた絶望的な光景に言葉を失います。彼が主の言葉を語った時、この骨は生き返ります。見事な神の御言葉の現実が明らかにされています。
わたしたちの思いが、わたしたちの現実となります。わたしたちの現実「恨み、妬み、ひがみ」の酸味一体から、「父、子、聖霊」の三位一体の神の現実に生きるのです。 新しい「命の時」―骨に筋が、筋に肉が、肉に皮膚が、そして霊が吹き込まれる時―命の世界が始まります。「小さな群れよ、恐れるな。あなた方の父は、喜んで神の国をくださる」からです。主はまた、「恐れるな、語り続けよ」ともわたしたちに語ります。「わたしの時」でも、「あなたの時」でもなく、「命の時の中」に生きるわたしたちです。