宣教

2021-05-10
5月9日「奇跡を生きる食物」

創世記15:6  ヨハネ6:22〜41
 「わたしたちの今」、それは、わたしたちが自分で、自分に対して「信じている今」であると言ったらどのように思われるでしょうか?わたしが「自分の今」をどのように思い、感じているかが、まぎれもない自分自身の人生なのです。いろんな方と出会う度、多くのものが揃っていても、「不幸」と感じている人と、持たなくても「幸い」と感じている人のいることに改めて気付く日々の中です。
 マザー・テレサは自身の人生をどのように感じていたのでしょうか?わたしには間違いなく、「幸せの王道」を歩んでいた方のように思います。なぜならば、マザーと出会った人は今、までと正反対の方向、幸せに向かって歩みだしたと思えるのからです。
 多くの人は、永遠の命を求めているかのように「朽ちる食物」のために人生を用います。あなたは何を「信じ、何に向かって歩んでいますか?」
 イエス様が与えた、「5つのパンと二匹の魚」も永遠の命を与えるものとはなりませんでした。「永遠の命に至るまことの食物」とは、「神の業」を行うことです。「神の業」とは、「神がお遣わしになった者を信じる」こと以外のことではありません。あなたが信じているものがあなたの人生となるのです。今一度、「あなたは誰を、何を信じていますか?」

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2021-05-02
5月2日「主の祈り 前編」

マタイ6:9〜13
 主の祈りは、知っている方々にとっては暗記してしまったお題目のように感じるかもしれませんが、実は、主イエスが与えてくださった信仰生活の深みへの招待状なのです。
 主の祈りは、「御名があがめられますように。」という言葉で始まります。御名をあがめるのは誰でしょうか。そうです。人類です。では、全人類が主の御名をあがめることになれば、どのようなことが考えられるでしょうか。すべての民が主をあがめる。それは神の国の実現です。「悲しみも涙もない」と黙示録にあるように、神の国が完成することを願うことから祈りが始まるのです。
 次に、「御国がきますように。」あなたは今すぐに御国がきてほしいと本気で願っているでしょうか。もし、主が今来られたなら、あなたが未来に予定していた計画は全てキャンセルになります。あんなこと、こんなこと、楽しいことも、期待していたことも、全てが消え去ります。そう聞くと、まだ御国が来ませんように、と祈りたくなりませんか?
 大丈夫です。あなたが考える以上に素晴らしいご計画をもった方が、あんなこと、こんなことを計画されているのです。

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2021-04-25
4月25日「信仰のしるし」

マルコ16:14〜18
 主イエスが復活され、直接目にした人々の言葉は、11人の弟子たちにとって信じがたいものでした。そんな彼らが集まっていると、復活の主がおいでになり、彼らの不信仰を咎められました。そして、ご自身を信じる人々にはどんなしるしが伴うかを説明されたのです。
 初めに不信仰を咎め、その反対に信仰の世界を語る主イエスの御言葉は、この箇所が信仰をテーマとして取り扱っていることを教えてくれます。
 「彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
 悪霊を追い出して新しい言葉を語ること、手で蛇をつかむこと、毒を飲んでも害を受けないこと、病人を癒すこと、これらが信仰に伴うしるしとして語られました。
 悪霊の目的は神の愛とそのご計画から引き離すことです。そのためには新しい言葉、すなわち聖書の言葉に対する信仰が必要です。他のしるしについても同様に、信仰がキーワードなのです。
 あなたは、そのしるしの道を歩んでおられますか?

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2021-04-18
4月18日「神が与えたいもの」

ルカ11:1〜13
 弟子たちは、主イエスのみ前に祈りを教えて下さいと願い出ました。与えられた祈りの文言と、その後に続くたとえ話から、主が、弟子たち、そして私たちに知ってほしかったこととは一体何でしょうか。 
 もちろん、それは祈りについての考え方に光を当てるものです。しかし、たとえ話に登場する「執拗に頼めば話を聞いてくれる友人」のことが神だとするならば、神は執拗に頼まなければ言うことを聞いてくれない方ということになるのでしょうか。
 子どもたちは与えられるまで求めていく傾向にあります。何度も何度も同じことを願い、諦めて与えることもあるでしょう。実際、神がそのような人々に対して願い求めるものをお与えになった事例も聖書に記されています。しかし、執拗に願った当人たちにとって与えられたものが有益だったかどうかは疑問が残ります。
 多くの場合、彼らが求めたのは地上における一時的な解決や豊かさでした。しかし、神が与えたいものは聖霊です。嵐の中でさえも眠ることができるような平安と、神は必ず与えてくださるという信仰。神が与えたかったのは、その実りをもたらす真理の御霊なのですから。

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2021-04-11
4月11日「偉大なる日毎の糧」

詩編121:7-8   ヨハネ4:31〜34
 「♪山辺にむかいてわれ 目を上ぐ 助けはいずかたより 来るか。天地のみ神より 助けぞ我に来たる。(賛21‐155)」のみ言葉は、わたしたちの由来と、宿るべき場所が何処か?を明らかにします。
 主は「あなたの出で立つのも、帰るのも見守る」とあります。信仰は、住み慣れたこのところから出ることと、神のもとに帰ることであると知ります。
 確かに、信仰者とは出る人です。アブラハム、モーセのみならず、ペトロもパウロも、今いる場所から、神の指さす処へと出で立ちました。「信仰」とは従うことを含む最もダイナミックな動詞です。
 昼食を買いに行った弟子たちに主は、「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と言われました。「主の祈り」の、「日毎の糧」の意味が鮮やかに浮かんできます。「御名を、御国が、御心が…」の祈りこそがわたしたちの祈り「日毎の糧」なのです。
 昼に人の目を避けて水を汲みに来たサマリヤの女は、イエス様と出会ったその時から全く変えられ、恐れる人々への「キリストの証人」となりました。
 「主の祈り」こそは、わたしたちとすべての人々に奇跡をもたらす、「永遠の命に至る水がわき出」る、奇跡をもたらす祝福の井戸なのです。

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2021-04-04
4月4日「神は生きておられる」

ルカ24:5〜12
 主イエスは、生前にたくさんの御言葉を弟子たちに残しました。生活にまつわること、信仰について、永遠の命と天国についてです。しかし、ご自身の使命についてもしっかりと語っておられたのです。それは、十字架の後に復活する、という約束でした。
 凄惨な十字架刑のむごたらしさを目にした人々は、死んでしまった主を葬りました。こう思ったことでしょう。「こんな姿で、どうやって蘇るというのだろう。」と。
 それでも、一縷の望みを抱いて墓の前に来ると、そこに主の遺体はありませんでした。驚く婦人たちに天使が宣言します。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」 それは、かねてから主ご自身が語っておられたことでした。
 生きておられるいのちの方。主にとって、死は不自然なものです。しかし、私たちにとって死は自然のことであり、すべての人に等しく訪れるもの。問題課題も同様です。
 いのちのこと、そして問題課題の解決を死者の中に探していないでしょうか。死は罪から生じる不自然なもの。そこに復活の主はいないのです。

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2021-03-28
3月28日「信仰の実り」

 ルカ18:35〜43
 使徒の働きに見られるように、福音はしばしば敬遠され、揶揄され、迫害されました。それは、福音そのものである主イエスの十字架と復活を見れば明らかです。なぜなら、神が人となり、身代わりとなって十字架で死に、復活されたという荒唐無稽な話を弟子たちは携えていったからです。多くの人はこれを受け入れませんでした。しかし、そんな中にあっても、福音を救いと感じ、生ける神、主に出会った方々がいました。
 エリコの町に、生まれつき目の見えない方がいました。彼のところにも、イエス・キリストの話は届いていました。その方は、目の見えない人の目を開き、手足を癒やし、霊的な解放をもたらし、死者まで蘇らせる。そんなことがあるだろうか。そう思ったに違いありません。
 やがてその日が来ました。主がそばを通りかかったのです。彼は叫びました。「ダビデの子よ、憐れんでください!」人々は彼をたしなめましたが、やめませんでした。なぜでしょうか。
 聖書は疑い迷いを否定しません。詩篇はそのような歌で満ちています。しかし、疑心暗鬼の中で彼らが叫んだ相手は、主であり、その主こそ、救いの神だったのです。

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2021-03-21
3月21日「神の募集要項」

マタイ11:28〜30
  主イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」とおっしゃいます。疲れた者とは、誰のことでしょうか。病んでいる方は別としても、私たちはゆっくり休めば身体は回復し、疲労が取れるように神がお造りになりました。しかし、休んでも疲れが取れないときがあります。それは、身体的な疲れというよりも、精神的な疲れであったり、魂の疲れであったりするのではないでしょうか。
 また、重荷を負う者とは誰のことでしょうか。では、果たして、この世界に重荷を負っていない人はいるでしょうか。そんな人はいないのです。そして、主ご自身も、この世界に肉体をもっておいでになり、重荷を負われたことが聖書に記されています。それは、十字架です。
 心と魂の疲れ、そして重荷を負ったままで、主は私たちを招いておられます。なぜなら、私たちには休みが必要であり、ご自身がその平安を与えることができる存在であるということを知っておられるからです。なぜなら、私たちをお造りになったのは主であり、どのようにすれば私たちが安らぎを得られるかをご存知だからです。

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2021-03-13
3月14日「コンセントはどこに?」

イザヤ55:11  ヨハネ3:16〜21
 クリスチャンならば誰でも知っている聖書の個所と言えば、「ヨハネ3の16」と答えることでしょう。ルターは「これは、小さな聖書である」と言ったのはあまりにも有名です。
 わたしたちは今、「誰と何処と繋がっているか?」といつも問われています。イエス様は「わたしとつながっていなさい」(ヨハネ15:6)と言われました。そして、教会とクリスチャンはそのように歩んできました。勿論、そうでないことは沢山ありましたが。
 どんなに立派なパソコンも電気器具もコンセントが外れていればその機能を生かすことは出来ません。しかし、創造の初めから人は、「蛇-サタン」に誘惑され、サタンにコンセントを射し込んでしまいました。この大切な真実が、義人ニコデモとの対話の中に伺えるのは注目に値します。この時ニコデモは、この世の延長線上に「神の国」を見ていました。
 しかし救いはアダムの系譜からは生まれることはありません。一方的な神様の恵みによるのです。神様のなされた救いは、人間のありとあらゆる思考、想像の全く及ばないものでした。
 人の罪の深さは、御子をお与えになるという神の
愛により明らかにされました。あなたは人生のコンセントを、今、どこに差し込んでいますか?

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2021-03-10
3月7日「上りゆく生涯」

雅歌8:5〜7
  雅歌は愛する人との恋愛関係のような言葉で満ちています。これを実際にあった人々の理想的な恋愛関係と読み解くこともできますが、これらの言葉の裏には、人間に対する神の愛が描かれ、そのことを伝えようとしていると言われています。
 また、雅歌はソロモンによる知恵文学ではないかという議論もあります。だとすれば、なおのこと、神という言葉が一切出ず、一見恋愛物語に見える雅歌の中に、神の真理が隠されているはずです。
 「荒野から上ってくる」この言葉の意味するものは何でしょうか。荒野とは、死を連想させる言葉であり、人間の努力の及ばない、まさしく何もない場所です。そこから上ってくる人の姿。その人は、どのように荒野から上ってくるのでしょうか。それは「恋人の腕に寄りかかって」
 新改訳聖書では、「恋人」ではなく「愛する人」と訳されていますが、寄りかかることのできる人とはどんな相手でしょうか。もちろん、寄りかかるために必要なことがあります。それは、そばにいること、いつも一緒にいることです。
 私たちの救い主の名は、インマヌエル。「神、我らと共にいる」です。その方は言いました。「世の終わりまであなた方と共にいる。」

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2021-03-01
2月28日「土台となる岩」

マタイ7:24〜29
 主イエスは山の上で群衆に向かって日々の生活について教えました。天国の価値観、祈り、赦し、など様々なことを権威を持って語られたのです。これは、人々を驚かせるものでした。
 最後に、主は来たる困難に対する備えについて話されました。これは、砂上の楼閣という慣用句の原点となった箇所です。そこで主は、砂の上に家を建てた人の愚かさと、岩の上に家を建てた人の賢さを強調しました。
 私たちは緊急事態に陥った時のことを考えて、懐中電灯などを用意しておくでしょう。光があれば、暗闇でも行動できるからです。その他にも、災害時に役立つものを予め準備するのと同様に、主は人生の嵐がやってくる時に備えるように教えているのです。では、問題課題がやってくる時、私たちは何を備えておく必要があるでしょう。
 主は「わたしの言葉を聞いて行う者」は賢いとおっしゃいます。聖書にある主の御言葉に対する信頼が、人生における最大の嵐である死に対する備えとなります。その人は「岩」の上に家を建てた人だというのです。では、「岩」とは何でしょうか。
 使徒ペトロが、人類史上初めて口にした言葉。これが、「岩」です。

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2021-03-01
2月21日「まことの礼拝」

ローマ12:1〜2
 使徒パウロは、「神の憐れみによって、あなたがたに勧めます。」と言います。憐れみとは何でしょうか。それは、相応しくない者に、それにも関わらず与えられるものを言うのでしょう。
 私たちは神の憐れみなしには生きていくことができません。心臓が勝手に動き、自力で生きているようですが、実は生かされているのです。どうして生かされているのでしょうか。生かしてくださっている神は、何が目的なんでしょうか。
 その昔、ユダヤ地方ではモーセの律法が遵守されていました。その中には、いくつもの前触れが記されています。何の前触れかというと、イエス・キリストの誕生とその生涯を示す前触れです。主人と奴隷について書かれている項もそうです。よい主人に仕えている奴隷は、話を聞くまでもなく判別可能でした。奴隷である彼らは、社会の中でひときわ輝く存在でした。家族揃って社会に主人の素晴らしさを証しする人々となっていたわけです。
 私たちがささげる真の礼拝とは、儀礼的なものでもなく、献げものでもなく、輝いて生きることです。れは、私たちの姿を見た他の方々が、私たちの素晴らしい主人、イエス・キリストを知るためなのです。

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2021-02-14
2月14日「怒るキリスト」

イザヤ56:7b  ヨハネ2:13〜17
 今日の聖書の個所は、「宮清め」として知られている個所です。イエス様が縄の鞭で、神殿の境内で終売をしている商人を追い出すという、わたしたちのイエス様に対するイメージを覆す記事です。
 それでは、イエス様はそんなに怒ることをしなかったお方なのでしょうか。勿論、柔和なお方であったには違いありませんが、聖書をよく読み、その歩みを辿ると、怒りの姿がたくさんあるのに気づきます。皆さんは、怒るイエス様の場面を思い出すことが出来ますか?
 イエス様はファリサイ派の人々や律法学者を「白く塗りたる墓」とまで非難し、ご自身の受難を予言した時、「そんなことがあってはなりません」と言ったペトロに、「サタンよ、退け!」と叱責しています。
 姦通の現場で捕らえられた女をなぶりものにする人々に、「罪を犯したことの無い者が、この女に石を投げなさい!」と怒って言われた主がいます。
 よき働きをされた富士見町教会の島村亀鶴牧師は、教会を辞する時、「わたしの牧師としての一生の悔いは、教会員を真に怒り得なかったことである」と語られたという。怒りについて再考する日々です。
 キリストの十字架は、神の怒りをその身に負われた愛であられたことを心に刻みみたいものです。

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2021-02-14
2月7日「いのちの冠」

詩篇91:1〜16
 疫病は、いつの時代も人類に深い悲しみと影を落としてきました。現在も、新型コロナウィルスによる影響が続いています。
 詩篇には、神を信じる人々が疫病にかからないと約束されているように受け取れる箇所があります。しかし、現実には世界中の教会に感染者があり、困惑します。果たして、主なる神は何を言おうとされているのだろうか、と。
 詩篇の記者は、この歌を三部構成にしました。まず、第一部は神の偉大さをほめたたえる讃美の言葉。第二部は、世界の有り様とそれに対峙する人々への信仰による励まし。そして第三部は、神ご自身による人々への約束です。
 最後に、「わたしの救いを彼に見せよう」という言葉で締めくくられるこの詩篇は、三部構成によって神が与えてくださる永遠の命についての約束が語られている箇所です。
 疫病にかからないなら、それに越したことはありません。苦難がないなら、それも良いかもしれません。しかし、死は避けることのできない問題として、すべての人の前に置かれている疫病と言えるでしょう。
 私たちの主イエスは、その疫病に勝利された方です。

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2021-01-31
1月31日「信仰の栄冠」

黙示録3:7−13
 初期キリスト教会の歩みを見るとき、大きくて綺麗な会堂や大勢の信徒がいなかったことが分かります。人間的に見れば、彼らは小さかったのです。もちろん、フィラデルフィアの教会も同様で、町自体も小さなものでした。
 では、教会の真価はどこにあるのでしょうか。聖書は、外観や人数ではなく、たとえ小さくても、貧弱であっても、キリストの言葉を固く守っていた人々が賞賛され、逆に、外見や人数の面でいかに優れていようとも、中身の伴わない人々について厳しく言及しています。
 この町も例に漏れず、迫害の中にありました。しかし、そのような中であっても、しっかりと福音の立ち続けた方々がいたようです。主イエスは彼らを喜び、ご自身の聖所の柱とされると約束します。つまり、私たち一人ひとりは神の聖所の柱とされているのです。柱が一本欠けたらどうなるでしょう。建物は崩れ去ります。つまり、柱は一本たりとも外に出ない存在として、救いの確信を与える象徴的なものなのです。
 柱であるあなたには、神の御名と天国の住人であることの印が刻まれています。あなたはこの素晴らしい約束を信じますか。

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2021-01-31
1月24日「喜ぶことの意味」

フィリピ4:4〜7
 皆さんは神のご性質は何ですか、と聞かれたら、どうお答えになるでしょうか。愛、忍耐、正義、その他、神のご性質を反映した言葉はたくさんあります。その中でも、私たちが忘れがちなのが「喜び」です。
 神は天地を創造された時、いつも決め台詞を用意されておられました。それは「良し」です。これは、神の喜びを示す表現であり、実際、神は喜びの方なのです。
 しかし、神は悲しまれることもあるではないかと思われるでしょう。実は、神が罪に溺れた世界を悲しんでおられるのは、神が悲しみの方だからではありません。「悲しみを知っておられ」と聖書にあるように、神にとって悲しみは一時的な反応であって、永続的なご性質ではありません。神は喜びの方なのです。そうでなければ、永遠の都には、悲しみもあったことでしょう。
 ある人は、「喜びとは、天国における重要な務めだ。」と語りました。そうです。喜びとは務めです。してもしなくてもいいものではなく、感情的なものでもなく、神のご性質を反映して生きるための命令であり、決断なのです。
 神のご計画と喜びは切り離せません。すべての計画は喜びへと向かっているのです。

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2021-01-17
1月17日「聖なるリノベーション」

イザヤ64:7 コロサイ3:16〜17 イザヤ書の預言に描かれた暗い終末の様子に、一筋の光のように差し込まれた御言葉があります。私たち人間は粘土であり、主なる神が、私たちの陶工だという御言葉がそれです。
 人は個性を持っています。怒りっぽい人、小心者の人、人といるのが好きな人、そうでない人…。私たちは言います。「私はこういう性分ですから。」
 本当にそうでしょうか。自分は絶対変われない、という思いはどこから湧いてきたのでしょうか。いずれにしても、その自己判断が、私たちの人生の行く末を決めていきます。しかし、神は私たちを主イエスのようにしたいのだと聖書は語ります。果たして主は怒りっぽかったでしょうか、小心者だったでしょうか。あなたが主のように変化すると、どんな人になるのでしょうか。
 もし、あなたが身体のどこかに不調を抱えたとしたら、助けを求めたり、病院に行くはずです。心も同じではないでしょうか。
 もし、私たちが勝手な自己判断から離れて、心のリノベーションを神に発注し、その工程のすべてを委ねたとしたら、一体どのような素晴らしい変化が待っているのでしょうか。

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2021-01-15
1月10日「初めから終わりまで」

詩編31:14-15  黙示録1:8
 「始まり」と聞く時、クリスチャンである多くの人は、創世記1-1~の「初めに、神は天地を創造された。~神は言われた。『光あれ』。こうして光があった。」を思い出すことでしょう。
 これほどまでに鮮やかに、世界の始まりを記しているものはありません。加えて人間の始まりと本質も明らかに記されています。主のものなる私です。
ここには、神と人間との深い関係の洞察のみならず、すべての事柄の理解に関するバックボーンがあります。この、「初めに神は」の言葉は、「初めに言葉があった」(ヨハネ1:1)を想起させます。
 聖書は、すべての始まりは「神の御手」の中に始まるだけでなく、終わりもまた、「神の御手」にある(詩編31:15口語訳)ことを明らかにしています。
 一年を始めるこの時、わたしたちは自分の始まりも終わりも、神の御手にあることを心に刻み、慈しみの招きの中を、生きる者でありたいものです。
聖書の最後の「ヨハネの黙示録」1章8節で、「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られるお方、全能者が…『わたしはアルファでありオメガである』」と宣言します。インマヌエルの主と共なる、「御手にあるわたしたち」の一年が祝福の約束をもって始まりました。何という幸いでしょう。

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2021-01-03
1月3日「だから大丈夫」

創世記18:13〜15 「神に不可能なことがあろうか」
 聖書に散りばめられた数々の物語の中で、この言葉の当てはまらないものは一つもないでしょう。救い主の誕生においても、若く、未婚のマリアに天使が遣わされ、再びこの言葉が与えられています。「神に不可能なことは何一つない」
 アブラハムとサラの夫婦にも、不可能を可能にする神の大いなるみわざが示されました。それは、あまりにも驚くべきことで、信じがたいことだったので、彼らは笑ってしまうほどでした。
 もし、人間的に可能なことだけを神がなさってくださったら、誰が神の存在を認めるでしょうか。もし、あなたが神だとして、ご自身の存在を人々に表したいと思ったら、驚くべきことをしたいと思わないでしょうか。
 しかし、祈りが聞かれない、思い通りにならない、驚くべきことが起こらない。そう思うこともあるでしょう。もし、そこで諦めてしまうなら、祈ることをやめてしまうなら、あなたはその祈りや願いに対する神の答えを見逃すことになるかもしれません。
 大丈夫です。あなたの祈りや願いは必ず届いています。不可能が可能になる。これは神の約束です。

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2020-12-27
12月27日「共にいる神」

 創世記28:10〜22 神がご自身を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と表現されます。これはどんな意味があるのでしょうか。
 もし、あなたがご自分のことを人々に示そうと思うなら、どこどこの誰々です、と言う時に、マイナス要素のあることを添えるでしょうか。アブラハム、イサク、ヤコブは、人間的に優れていたわけではなく、神を信じるようになってからも罪を犯すことがあったようです。しかしながら、神である主は、彼らの神であることを堂々と告げるのです。神は、どんな人の神と呼ばれることになろうとも、喜ばれる方であることを示しているのです。
 そして、神の名はインマヌエル。私たちと共におられ、決して見捨てない、という名です。もしかしたら、あなたは神を忘れて何週間過ごしても平気かもしれませんが、神はあなたを1秒たりとも忘れることはできません。そして、それは永遠に続きます。
 二人三脚で歩む夫婦や、仲間たちの素晴らしいエピソードが世界中にありますが、神とともに歩むエピソードを超えるものはありません。
 その計画は現在進行形であり、思い通りに行かないこともあるかもしれません。しかし、どんなことがあったとしても、主はここにおられるのです。

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