宣教

2022-09-25
9月25日「生涯現役の恵み」

申命記34:5~12
 主の僕モーセは120歳で天に召されますが、最後まで、目はかすまず、活力もうせてはいませんでした。つまり老衰で亡くなったのではありません。モーセは「主の命令によってモアブの地で死んだ」と不思議な書かれ方をしています。生涯現役という恵みにあったモーセは、病気でも老衰でもなく、ひとえに御心によって天に召されたということです。どんな人にでも、その人それぞれに神からあてがわられた役割があり、その役割を終えれば、神の御許に帰っていきます。私たちの命は、私たち自身のものではなく、神に属するものだからでしょう。
 今は人生100年の時代であると言われます。私たちも生涯現役で最後まで主に仕え働きたいと願うのではないでしょうか。そのような生き方こそが、最も生きがいのある幸せな生き方ではないでしょうか。人生100年の時代、「終活」ではなく「老活」こそが、65歳以上の人口が全体の3割近くを占める現代社会の課題とも言えます。
 ぜひモーセに倣いたいと思います。モーセの一生は、主の御心に聞き従う生涯でした。神さまと「顔と顔を合わせる」ようなとても親密な関係でした。主の僕としての姿にその秘訣があります。  青森教会 井垣勝男牧師

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2022-09-18
9月18日「神の霊に導かれて」

創世記12:1~4
 霊性(スピリチュアル)ということばの本来の意味は、ラテン語のスピリトゥスに由来し、「息」という意味と、「霊感」という意味の二つの意味があります。それぞれが欠かせないものとして捉えられており、天地創造の中でも、人間は神の命の息を吹き入れられてはじめて生きる者となったとされています。
 今から約4000年前のバビロニアの世界に一人の男が登場します。城塞都市での守られた豊かな暮らしの中で、言いようのない不満と苛立ちを抱えながら、人生の意味を問う彼は、ある時、神からの語りかけを聞くのです。神は彼に息と霊感を送り、すべてを捨てて冒険の旅に出るよう促します。それまで、人がこさえた偶像や、隣国の神々が融合と同化を繰り返すような、どっちつかずの神概念しかなかった人類にとって、彼の発見はとてつもなく偉大なものでした。彼の名はアブラム(「偉大な父」の意)です。
 神は人に外側から御言葉という名の息と霊感とを与え、その人の内側から力を引き出し、祝福の源になることができるように導いています。人が神をつくる時代から、神が人をつくる時代へ。アブラムがそうなったように、神の息、スピリチュアルはあなたにも注がれているのです。

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2022-09-11
9月11日「原点に帰って」

箴言1:7   1コリ1:18-33
 ユダヤ人の信仰であった聖書(旧約)が、今や、新約と共に、全世界の救いの出来事、信仰となったのは、イエス・キリストの十字架を通してでした。「ボタンの掛け違い」という言葉があります。最初のボタンを掛け違うと、最後には大きなゆがみとなります。直すためには、最初のボタンから始めて、すべてのボタンをはずさなくてはなりません。この第一ボタンこそ「神の愛、知恵たるキリスト」です。
わたしたちの知識(知恵)は、チリのような一片にすぎません。世界の知恵は、「初めに神は天地を創造された」出来事から始まります。「知恵の書」である箴言は、「主を畏れることは知恵の初め」、神こそ「全ての全ての第一原因である」と宣言します。
 今日の、人間の知恵や知識は、世界滅亡の予兆ですらある「核」の問題として浮上します。知恵とは、人間を生かし、平和を創造するものにして初めて「知恵」となるのではないのでしょうか。
 真の知恵-人間を生かし救う―を神様は教会託されました。逆説的に思えますが、「理解せんがため信じる」と言った、アンセルムスの言葉を思い出します。「神は愛である」の信の世界、「キリストは世界の平和」の宣言から始まる世界です。十字架という原点に立ち帰り、自らを整えるわたしたちです。

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2022-09-04
9月4日「常識破りの愛」

マタイ20:1~16
 聖書の「旧約」「新約」が「旧訳」「新訳」ではない理由をみなさんはご存知かと思います。そうです、これは契約の「約」です。神との新しい契約が、主イエスの十字架によってもたらされたからです。
 ところで、契約が新しくなったということは、ビジネスの現場がそうであるように、中身も変わるのでしょうか。実はそうではなく、契約内容が変わるのではなく、契約方法が変わったのです。
 ぶどう園の働き人たちも、農園のオーナーと契約した人々でした。契約内容は1デナリオンです。もちろん、早くから契約した人々は農園に入って多く働きました。一日の働きがもう終わろうかという頃合いに、何と新たな働き人たちがやってきたから驚きです。早くから来た人々は戸惑ったことでしょう。「こんな時間から来て!」と。
 仕事が終わり、いよいよ契約通りの報酬が割り当てられます。しかし、先に入った人々は、ほとんど働かなかった人々と同じ報酬であることに腹を立てました。この世界の価値観としては当然の主張です。
 しかし、聖書とその神は、因果応報の外にいる方です。そうでなければ、罪人は罰せられるべきでした。ところが、罰を受けたのは主ご自身だったのです。

※ 音声の録音状態が悪く、聞き取りづらいです。ご了承ください。

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2022-08-28
8月28日「あきらめないで」

イザヤ40:27~31 ローマ10:9~11
 暑い時に「暑い~」と口にし、寒い時に「寒い~」と口にする。そうすると、余計にしんどくなる時はありませんか。
 主イエスは「あなたの信じたとおりになる」とおっしゃいました。預言者イザヤも、見たこともない話を人々に宣言し、書き記しました。後の人々は、その言葉があまりにも具体的であるために、後代の誰かが起こったことを知った上で書いただけではないかと批判しました。しかし、それは単に神の力とその言葉を信じることができなかっただけなのです。
 疲れ切ったイスラエルの人々に対し、イザヤは神による救いを宣言しました。そして、神に力を与えられた人々は、まるで鷲のようだと告げるのです。
 鷲は様々な国の国旗の中に紋章として描かれていますが、それは鷲の力強さを象徴として、国力を誇示しているかのようです。しかし、鷲とはいつも強力な存在なのでしょうか。疲れたり、迷ったりしないのでしょうか。
 聖書は鷲について多くの言葉を取り上げています。そこには、鷲の驚くべき習性から、神と人との関係が語られているのです。

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2022-08-21
8月21日「すべてを神に」

ヤコブ5:13~20
 ヤコブの手紙は、信仰義認のキリスト教の中でも、異彩を放つ書簡です。この書簡は初期キリスト教会の礼拝で会衆が合同で読んでいたものとされています。当初、この書物を聖書に入れるかどうかの議論がなされましたが、行いによって救われるのではなく、信じて救われたことが行動を伴うとされ、聖書に編纂されました。
 ヤコブは迫害の中、散らされていった信仰者たちに、祈り、賛美、といった具体的なアクションについて語ります。それは日常生活の中で起こりうる問題について、そのすべてを主なる神に委ねるように促すのです。
 祈りは主にささげられ、賛美も主にささげられ、主の教会の交わりを通して神の栄光が現され、主の十字架によって罪が赦される現実を知る。教会という共同体を通して、何が起こるのかを観てきたヤコブだからこそ、語れることだったのです。
 これは、祈った通りの事が起こらない。私の祈りは聞かれているのだろうか、という不安の中にある時、教会の交わりがどれほど助けになるかを表している箇所だと思います。
 隣に兄弟姉妹がいる。なんという幸せ。詩篇の記者が歌ったように、信仰の友がいること、それはなんという恵みでしょうか。

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2022-08-14
8月14日「愛のハーモニー」

箴言11:13  フィリピ4:8-9
 あの、キリスト者迫害の急先鋒、ステファノの殺害に立ち合い、クリスチャンを絶滅させるために「殺害に息を弾ませながら」探し回ったサウロとは思えない、柔軟な魂を感じさせる言葉です。「これ以外は絶対ダメ!」から解放された姿がここにあります。
 「すべての気高いこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、名誉なこと、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」と。あのサウロと同一人物とは思えない言葉を言い切ります。
 パウロは、今、自分の義を立てるためではなく、共に生きることへと方向転換しました。わたしたちに与えられた「キリスト信仰」は、キリストの平和、愛と喜びを共に生きるためのものなのです。
 「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」(エフェソ3:19~)を生きるようにと招くパウロです。いたわりと優しさへの招きに別人が見えます。私達も、キリストの愛に、優しさに、豊かさに招かれている自分と出会うことが出来ます。。
 家族と笑顔で接していますか?「売り言葉に買い言葉」の貧しさから解放されていますか?あなたは、「こんな人に会いたい!」と思う「こんな人」ですか?「悪口を言い歩くものは秘密を漏らす。誠実な人は事を秘めておく」と!チャレンジされています。

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2022-08-06
8月7日「障壁を超えて」

マルコ2:1~12
 昨今、孤独や分断という言葉が社会の抱える問題点として指摘されています。主イエスの時代にも、分断と孤独の中で、生きづらさを抱えている方々が多く存在していました。中風の人もその一人でした。
 しかし、彼には、彼のことを愛する四人の男性がいました。この男性たちが中風の人とどのような関係かは語られていません。この四人の男性が中風の人を屋根から吊り降ろす姿は、主イエスにとって「信仰」の事柄でした。
 男性たちの行動は、私たちに信仰が問題を乗り越えていく鍵になることを教えてくれます。彼らが直面した問題とは何だったでしょう。中風の人は明確に罪人であり、町の外にいたことでしょう。その人を街中に連れてくるのです。そして、目的地には戸口に隙間もないほどの群衆です。さらに、屋根を剥がすという行動に出るのです。主イエスはこれを信仰というのです。
 「主のもとに行きさえすれば」これが彼らの信仰であり、モチベーションであり、最初で最後の賭けでした。
 人々は、その結果を見ながら言いました。「このようなことは、今まで見たことがない。」
 あなたにも見たことがないことが起こります。

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2022-07-30
7月31日「贖いの代償」

民数記3:44~48
出エジプト記を読むと、今日の聖書箇所で登場する273人の長子は死ななければならない状況であることが分かります。そころで、神さまは273人を犠牲にするのではなく、彼らの罪を許し、彼らの命の代わりに5シェケルを払わせたのです。
 どうして神さまは彼らにお金を払わせたのでしょう。実は、神さまは彼らと続けて関係を保つために5シェケルを彼らに払わせたのです。彼らが自分の命の値段である5シェケル(約今の3500円)を見るたびに、神さまへの感謝や礼拝の心に満たされることを神さまは願っていたのです。
 私たちクリスチャンもイエス様に救われた後、「イエス様は人生で必要なのだろうか」と思うのでしょうか。具体的にそう思わなくても、私たちの日常生活はイエス様を忘れて生きる生活に近いのではないでしょうか。しかし、イエス様が私たちをお救いになった理由は、救われて終わるのではなく、私たちとの絆を毎日強くしたいからなのです。イエス様と共にするこの信仰の旅は素晴らしいものです。忘れそうな時、忘れたい時もあります。それでも、イエス様が私たちのために準備してくださった聖霊様、教会と共に今週もイエス様と一緒に毎日を送りましょう。

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2022-07-23
7月24日「荒れ野からのスタート」

イザヤ32:15~20
 「過去と他人は変えられない」というのが精神医学から出た結論で、一般的になっている考え方でしょう。どんな人が聞いても「なるほど」と納得できそうな内容です。しかし、聖書は言います。神の霊が降ると人は変化する、と。
 神は人をどのように変化させたいのでしょうか。それは、荒れ野が園に、園が森と見なされるような豊かさとして描かれています。荒れ野は死を、園から森は豊かさを象徴しています。キリストを信じる人々は「死から命に移っている」(ヨハネ5:24)と主イエスは告げています。神はあなたに死を与えたいのではなく、永遠の命を与えたい方です。
 さらに、神の国と神の義が満ちる場所には平安があり、森や町といったこの世の豊かさの象徴である価値観が揺らぐような時があったとしても、神の霊に満たされる人々は、普段と変わらず水辺に種を撒き、牛やろばを自由に放牧するというのです。「完全な愛は恐れを締め出す」(Iヨハネ4:18)からです。
 すべては荒れ野からはじまっています。あなたが問題と感じているところ、恐れを抱いていること、また、傲慢さが砕かれた時、そこが荒れ野です。神の霊はそこに降るのです。

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2022-07-17
7月17日「プラスアルファ」

マタイ6:33~34
 聖書に記された最も多い命令は「恐れるな」です。ほとんどの場合、その命令の後には「なぜ恐れる必要がないのか」といった意味を含む祝福の約束が続きます。
 主イエスは日々の生活に困難を覚える人々を前に、思い悩むことが罪であると教えています。罪とは、神から離れた不信仰と自己中心的な状態を言います。主は彼らに言われました。「信仰の薄い者たちよ。」と。そして思い悩んでいる人々に対して「異邦人」つまり、神を信じていない人たちのようになっているよ、と諭すのです。
 主は他の箇所でも「髪の毛までも一本残らず数えられている」と、神が常に私たちに気を配っておられることに目を向けさせます。
 とはいえ、人間は思い悩まないで生きることはできません。ですから「思い悩むな」と教えているのです。私たちが思い悩んでいる時、それは神の素晴らしさ、豊かさから目をそらし、神不在の中にいることなのです。
 主は、私たちがいつも神中心になることを求めておられます。それは、私たちがいつも主の平安に満たされるためなのです。

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2022-07-10
7月10日「天国の秤」

詩編23:1-3  マタイ20:1-16
 「天の国は次のようにたとえられる。」で始まる主イエスの譬えは不思議に満ちています。この譬えを読んで、「なるほど、そうゆうことか!」などと理解できる人は少ないと思います。わたしたちの一般的理解からは遠く隔たっているからです。何度もこの御言葉を取り次いだことはあるが、正直に言うと、自分で語ってみてもすっきりしないのが本音です。
 今回、「何を語ろうかな?」と考えていた時、この『天の国』の譬えが心に留まりました。「一日1デナリって何だろう」と思いめぐらしました。1日働いて得られる労働者の最低賃金が1デナリです。
 ぶどう園の労働者とは、わたしたちのことであると考える時、わたしたちの持っている物差しでこの譬えを考えることから解放される必要を覚えました。イエス様と出会ったすべての人が、この人たちであることに気づきました。彼らは天国を手にしました。
 1デナリとは、ほかならぬイエス様ご自身でした。天国とは、イエス様ご自身がご自分を与えることによって与えられるところなのです。わたしたちの能力にも働きにもよらず、ただ一方的な愛によって。
 「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」のです。神様は気前の良いお方です。わたしたちは天国の物差しの中にいる幸いな者です。

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2022-07-03
7月3日「神の目的」

マタイ4:1~11
 主イエスは宣教に先立って悪魔の誘惑を受けるために聖霊に導かれて荒野に導かれました。誘惑とは避けるべきものではないのでしょうか。それとも、受けるためにあるものなのでしょうか。
 何とか福音の拡大を抑えようと、悪魔はあらゆる誘惑で挑戦した、とあります。他にもたくさんの誘惑を受けたと思われますが、そのうちの3つが誘惑の本質的なものとして描かれているのです。
 悪魔の誘惑は、どれも神の言葉を曲解しています。御言葉には力がある、と聖書にある通り、悪魔は誰よりも神の言葉の偉大さを理解しているために、その力を悪用するのです。しかし、目的は神の御言葉とは別のところにあるため、どこかで偽りを挟む必要があります。ですから、神の栄光が表されるかどうかを考えることが、偽りを見抜く鍵となるでしょう。
 悪魔の誘惑は、偽りを偽りと思わせないように仕組まれているのがポイントです。まるで詐欺のようですが、詐欺の目的が金銭であるように、悪魔の偽りにも目的があります。それは神から引き離すことです。
 しかし主は、神から引き離される出来事へと自ら歩まれました。それがあの十字架です。それは誘惑ではなく、みこころに歩む時の試練だったのです。

※動画の撮影ができず、公開できませんでした。いつも楽しみにしてくださっている方々に感謝するとともに深くお詫びします。

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2022-06-25
6月26日「サーヴァント・リーダー」

マルコ10:35~45
 勝ち組、負け組という言葉があります。その言葉自体が、この世界の歪みを言い表していると思います。人より良い暮らしをするのが勝ち組で、そうでなかった人々はみな負け組なのでしょうか。では、主イエスほど負け組に該当するお方はいらっしゃるでしょうか。それでも、主はおっしゃいました。「私はすでに世に勝利している。」
 主は果たして何に勝利されたのでしょうか。私たちが勝利者である実感が無いとすれば、人の考える勝利と、主の勝利とどこかが違うのでしょうか。あなたにとって、勝利とは何でしょう。
 ヤコブとヨハネは、主の側近としての場を求めました。その場所には名声もあり、豊かさもあると考えたかもしれません。しかし、主はおっしゃいました。「あなたがたは、自分が何を願っているか分かっていない。」
 主はすべての弟子を集めて、偉い人とはどういう人か、そして仕えるとはどういうことなのかを教えられました。そして、ご自身について「仕えられるためではなく仕えるために」命を献げるために来たのだとおっしゃいました。
 仕えること、その生涯こそ、主にとっての勝利だったのです。

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2022-06-19
6月19日「信じて宣言する」

マルコ11:22~24
 山に向かって「海に飛び込め」と言えばその通りになる。主イエスは弟子たちに、そう教えました。あなたは山が海に飛び込むことなど信じられますか?
 幼稚園児に御言葉を語ると、ある子が言いました。「だから、海には島があるのか!」常識的な大人たちは彼の発言を笑うでしょう。そんなことはないと思っているからです。しかし、天地創造にあたって、主なる神は、水の中から乾いた地を生じさせるため、海に命じたのです。そして、その通りになりました。
 同じように、神はあなたを生じさせました。「高価で尊い」という言葉をもって。「極めて良い」という感嘆をもって。そして、その通りになりました。
 ところが、問題が生じ、苦悩が生まれ、悲しみや嘆きの中で、あなたはその言葉から離れるときがあります。「私は無理だ」「どうせ~」と。そんなあなたを見て、主はおっしゃるのです。「信じて、口にした通りになってしまうよ!」
 主の約束は真実です。あなたはどんな人になりたいですか、どんな人生を送りたいですか。あなたが信じ、口にした通りになります。
 神が人となり、十字架にかかり、復活され、今もそばにいる。信じがたいことですが、主が口にされた通りになりました。

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2022-06-12
6月12日「イエス様の派遣を発見!」

コヘレト4:9~12
 かつて、神は天地を創造し、人をおつくりになって言われました。「人が独りでいるのは良くない」(創世記2:18)
 人生はどこに行っても小グループです。家族、職場、学校、友人関係…。属する小グループの祝福はあなたから始まるのです!

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2022-06-05
6月5日「わたしを強めてくださる方」

イザヤ48:17 フィリピ4:13 初代教会が誕生したペンテコステの日に、弘前西教会の誕生の時から今日までの歩みを振り返る時を与えられ感謝します。いと小さき者が牧師の奥さん(パートナー)として48年、伝道師になって34年、その歩みが導びかれ、支えられてきたのは、「わたしを強めてくださる方」(フィリピ4:13)が、共にいて下さったからです。
 弘前西教会は初期の頃から、教会に集う方々と心を合わせて祈ることを学びました。「祈り求めるものはすべて既に得られた信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」(マルコ11:24)イエス様の御言葉に信頼して、祈りを共にしてきました。
 小さな群れの祈りに、神様はいつも最善の備えをして応えて下さいました。その時に相応しい助けを与えて下さり、言葉では言い尽くせぬ沢山の驚きと喜び、神様の奇しき恵みを教会の皆さんと分かち合ってくることができました。
 「わたしは主、あなたの神、わたしはあなたを教えて力を持たせ、あなたを導いて道を行かせる」(イザヤ48:17)との約束をして下さる主に信頼して歩む時、神様が最善へと導き、恵み溢れる道を歩むことができることを感謝します。

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2022-05-29
5月29日「不信仰な信仰」

マルコ9:14~29
 マルコの福音書9書22節には悪霊に取りつかれた息子をもった父が登場します。父の頼みを聞いたイエス様は、「信じる者には何でもできる。」とおっしゃいました。その時、父はすぐに、「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と叫んだのです。
 私たちも信仰生活の中でイエス様に「信じる者には何でもできる。」とよく言われますが、その言葉を聞く私たちは「本当に本当か?」と逆に疑ってしまうのではないでしょうか。疑うというのは人間が、無限なる神さまに対して持つ自然な反応かもしれません。信仰の父と呼ばれるアブラハムも、弟子たちも疑いました。
 当たり前のように疑いがやってきた時、私たちは今日の話で出てくる父のように、自分の信仰のない姿を認めて、自分の不信仰のために祈らなければならないと思います。神さまはそのお祈りを祝福し、また新しい力を与えてくださるのです。この1年間日本宣教の厳しさにまた改めて知りました。挫折した時、失敗した時、「もうダメだ」と思った時、自分の不信仰を告白し、神さまに助けを求めると、再び必要な力を私に与えてくださいました。皆さんも神さまの前に行って、自分の力ではできませんと告白し、神さまからの助けを求めていきましょう。

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2022-05-22
5月22日「弱さが強さ」

士師記3:12~30
 かつてイスラエルは罪を犯し、モアブの王エグロンをはじめとする同盟軍に破れ、18年間の支配を受けることとなりました。圧政の中、人々は再び神の助けを真剣に求める民へと変えられていったのです。
 助けに応えて神が与えた救助者は、ベニヤミン族のエフドでした。彼は左利きでした。
 ベニヤミンというのは「右手の子」という意味で、古代イスラエルでは神の右の座、右の手、といったように、力や強さを象徴とするのは右側でした。しかし、神が選ばれた救助者は「右手の子」ではなく、左利きのエフドだったのです。当時の社会的状況を鑑みるに、エフドは生きづらさを覚えていたのではないでしょうか。右手が大事とされる文化の中で左利きとして生きることは、日常的な差別や自らの出自への呪いとの共存だったのではないでしょうか。彼にとって、左利きは特別な長所ではなく、単なる弱さであり、短所だったに違いありません。しかし、主はその弱さを通して栄光を現されました。勝利は右側だけに与えられた特権ではないのです。
 神はあなたを最高傑作として創造されました。でも、短所がある、そう思っていませんか。それは、その弱さに神が働かれる余地がある証拠なのです。

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2022-05-15
5月15日「神の姿」

マタイ5:43〜48
 聖書は愛についてたくさんの区別をしています。「神は愛」であり、その愛は無条件だと聖書は言います。しかし、聖書を読んでいくと、「〜するならば」という条件付きの約束も多く見られます。これは無条件の愛と矛盾するのではないか。そんな疑問があるのではないでしょうか?
 家庭の様子を想像してみてください。ありのままを受け入れてくれる無条件の愛がある家庭は幸せです。しかし、条件の何もない状態で、果たして秩序が保たれるでしょうか?子どもが好き勝手なことをしていても、横で微笑んでいるだけであれば、それは親としての役割を果たしていないのではないでしょうか?
 神は母性と同時に父性をも併せ持っておられます。無条件の愛という母親の愛と同時に、条件つきの父親の愛をも完全に満たしておられる神は、無条件にいのちを与え、生かしていて下さいますが、さらに、悔い改めてご自分に立ち返ることを求めておられます。
 神の要求に従っていくことは、愛されていることを喜ぶ、受動的な世界から、御言葉に従う能動的な世界へと舵を切る事になります。そこは、約束の地。神があなたに見せたいと願っている場所なのです。

※音量が小さいのでお聞きづらい点をご了承ください。

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