宣教

2021-10-24
10月24日「助けの石」

サムエル記上7:2-12
 イスラエルの民はペリシテ人の脅威の中にいました。彼らはその問題の解決を求めて、多種多様な宗教、あるいは呪術などに傾倒していきました。そんな中で、指導者サムエルは人々に伝えます。「ただ主にのみ仕えよ。」と。
 あなたもペリシテ人のような問題課題を抱えていませんか。「いや、順風満帆だ。」という方がいたとすれば、100%の確率で訪れる死という問題に対しても、果たして順風満帆だと言えるでしょうか。
 イスラエルの人々にとって、死は身近な問題でした。今よりも寿命は短く、周囲には弱小民族を狙って虎視眈々と領地拡大に進む大国がせめぎ合っています。私たちも同じではないでしょうか。死という大国がいつ攻めてくるかもわからない状況。周囲には様々な問題課題が山積みです。もしかしたら、順風満帆だと言える方の多くは、死がリアリティのないものなのかもしれません。
 彼らは神の人サムエルのメッセージを受け入れ、罪を告白して裁きを受けます。それは、やがて来られる救い主、イエス・キリストを象徴するものでした。
 今、あなたが解放されるために必要なことは、全てを捨てて、ただ主に仕えることだけなのです。

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2021-10-17
10月17日「下にいる神」

出エジプト17:8-16
 聖書は私たちが戦場にいることを教えてくれます。あなたは神の武具を身に着けて、悪魔に対抗する戦士です。その戦い方はユニークで、想像もつきません。モーセたちはアマレク人という大きな壁を前にして、まさに戦いが始まろうとしています。神はモーセを通して人々に何と命じたでしょう。用意するのは人一倍大きな武器でしょうか、貫かれる恐れのない防具でしょうか、それとも歴史上の戦いのように、優秀な軍師が立てられたのでしょうか。いえ、違いました。
 神がモーセに語ったのは、杖を持って山に登り、手を上げ続けるということでした。直接戦いには参加しません。遠くで手を上げているだけです。最前線から不平が聞こえてきそうです。しかし、結果として彼らは勝利を手にしました。
 この戦いは、私たちに世の荒波の戦い方について教えています。モーセの傍らには支える人々がいました。手を上げて戦うモーセの下には岩が据えられました。神はそのことを記念するようにと、モーセが座っていた岩に「神の旗」と名付けるように命じました。岩が旗とはどういうことでしょうか。聖書に一度きりしか登場しない特別な言葉です。その意味について、一緒に学んでみましょう。

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2021-10-09
10月10日「聖なる無駄」

申命記7:6~8  ヨハネ12:1~8
 今日の有名な『ナルドの香油』の物語を読んで、O・ヘンリーの短編『賢者の贈り物』を思い出しました。貧しくも愛し合っている若い貧乏な夫婦が、互いのクリスマスのプレゼントに、高価な時計の鎖と、鼈甲の櫛を買いました~。役に立たなくなってしまったプレゼントの二人でした。そこに溢れたいのちの世界が懐かしく思い出されます。ラザロを復活させてくださったイエス様に感謝を表すためのマリアの好意を、ユダが、「なぜこの香油を300デナリで売って、貧しい人に施さなかったのか。」とマリアを非難しました。
 「それは無駄だ!」ということでしょう。多分、わたしも同じ場所にいたら同じ反応を示したことでしょう。「無駄!」このことがわたしの人生に影を落としていたことに気付きます。
 この世的に考えれば、イエス様のしたことは全てが無駄でした。世界を変える主の働き-「福音の出来事」-は「聖なる無駄」なしには、何一つなかったことでしょう。「効率」を気にして「愛」というキリストの救いの前を通り過ぎているわたしたちです。
 「貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいる」との主からのチャレンジへと招かれています。主と共に「聖なる無駄」に向かうわたしたちです。

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2021-10-03
10月3日「叫ぶ石」

ルカ19:37~44
 聖書には「石」という言葉がたくさん出てきます。天地創造の中にも、石に関する記述があります。それは、エデンから流れ出る川の流域に存在するものでした。その石は「ショハム」という石です。この石が意味するものは何でしょうか。
 実は、この石は白と黒のスジが帯状に並んで浮かぶ石のことで、しまめのうとも呼ばれます。また、英語ではオニキスです。この石は、祭司のエフォドと呼ばれる礼服にあしらったり、他にもいくつかの記述があります。黒は何を意味し、白は何を意味するのか、聖書から紐解いてみたいと思います。
 石は聖書の中でも特別な存在です。あるときは枕になり、またあるときは律法が刻まれ、罪人に投げられたのもまた、石でした。
 今日の聖書にも、石が出てきました。主イエスを歓迎するエルサレムの人々の熱狂と、弟子たちの喜びが爆発しています。ことなかれ主義者たちは彼らを黙らせるよう主に願います。しかし、救いを叫ぶ人々の声は、それを覆ったところで隠すことはできず、十字架の救いへの道と、賛美を止めることは誰にもできないのです。

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2021-09-26
9月26日「すくい上げられた石」

ヨシュア4:1〜9
 偉大な指導者モーセの後、次世代のリーダーとして立てられたのはヨシュアでした。彼らは主なる神の導きに従い、荒れ狂うヨルダンの川を前に、その信仰を試されたのです。
 かつて、葦の海を二つに割って人々をエジプトから救い出したように、神はヨシュアたちにも信仰による体験をさせたかったのです。その日、前世代が経験し、事あるごとに聞かされてきたように、海が二つに割れるという信じがたい光景を、彼らは目にすることになりました。
 神はその経験を忘れず、次世代に伝えるために、12個の石を川底から取って記念とするようにヨシュアに告げます。彼らは言われたとおりに行いますが、なぜか、ヨシュアは別の12個の石を、今度は川底に積み上げるのです。この石は「今日までそこにある」と伝えられていますが、詳細はわかりません。この石は何を示しているのでしょうか。
 川底から拾い上げられ、陸地に積まれた石と、陸地から拾い上げられて川底に積まれた石。この双方が意味することは、ある方の出現まで謎のままでした。その方こそ、救い主イエス・キリストです。
 主は次世代である私たちに何を伝えたかったのでしょうか。

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2021-09-19
9月19日「Praise & Worship」

マタイ28:19-20
 「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

佐々木 章(ささき あきら)
 中学校の頃からギターを始め、盛岡市にある善隣館の音楽グループ「グッドネイバーズ」のメンバーとして、東北各地を演奏して回る。
 1984年には韓国ゴスペルフェスティバルに日本代表として招かれ、1987年にはアメリカ、オハイオ州ニューナックスビル教会の150周年記念に招待される。
 普段は善隣館書店の店長として働きながら、各地の幼稚園や保育園などで「歌のおじさん」として演奏を続けている。

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2021-09-12
9月12日「それがあなたの人生です」

列王記下6:15-17  ヨハネ9:35-41
 おなじ方から1日に何度も、電話がかかって来ることがあります。内容はいつも、「自分の不幸」「人々の冷たさ」の訴えで、さいごに、「どうしてわたしだけが⁉」と叫んで終わります。
 イエス様は度々、「あなたの信じた通りにあなたになる」といわれました。あなたは自分の人生で、何を信じていますか?自分はどんな存在だとおもっていますか?」そして、「自分の思った、その通り」の人生を生きていることに気付いていますか?
 マザーテレサの言葉をお持ちですか?「思考に気をつけなさい それはいつか言葉になるから。 言葉に気をつけなさい それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい それがいつか運命になるから。」ドキッ!です。
 その時、誰あろう、その指先はまっすぐに自分を指しています。わたしたちが「現実」という時、それは自分の現実であっても他の人の現実ではないことの何と多いことでしょう。
 イエス様の失脚を意図する者の目は曇ってしまっていました。「何を見ているかに注意を払いなさい!」と言われる主の前に跪くものでありたいものです。

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2021-09-05
9月5日「どこにいるのか」

 ルカ15:11〜32
 福音書の中で、イエス・キリストと敵対した人々は、自分は誰よりも頑張っていると思っている人々でした。彼らは自分の英雄的な努力に目が向いていて、他者を愛する視点が欠けていたのです。彼らに必要だったのは、神にピントを合わせることでした。
 放蕩息子の姿は、神から離れた罪人がどのように神と再び結びつき、回復と成長の段階を歩んでいったのかが示されています。継続的な無知の中に生き続けた彼は、空腹の極みの中で我に返りました。自分の限界を知ったのです。そして、「息子と呼ばれる資格もありません」と、しもべとして父に会いに行きます。これは、悔い改めです。ところが、父は彼を無条件に赦し、しもべではなく、息子として迎え入れました。兄はこれを見て嫉妬します。この兄は、有能でプライドがある人の姿を示しています。これを打ち砕いて成長するためにも、私たちは聖霊という最も謙遜な方の力を借りて、克服する必要があります。
 何よりも、主が私たちに求めておられるのは、この父の姿です。この父は主ご自身です。父は、赦すにも、迎え入れるにも、与えるにも、報いを求めていません。霊的成長の最終段階は実に、そこなのです。 

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2021-08-29
8月29日「十字架を負って」

ルカ14:25〜33
 今、主イエスが再び来られ、彼の国が実現する。と言われ、私たちは素直に喜べるでしょうか。
 神の国が実現するとなれば、この地上に置いてこなければならないものがたくさんあるはずです。中には、大切にしてきたものだってあるかもしれません。それを天国に持っていくことはできないかもしれません。すべてを捨てていかなければならないと言われた時、どう感じるかは、私たちがどれほどこの世界に執着しているかを測るものさしです。
 主イエスは、「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたは誰ひとりとしてわたしの弟子ではありえない。」と厳しく教えました。このような言葉は私たちを混乱させます。お金がなかったら、家族がいなかったら、友人がいなかったら、あれがなければ、これがなければ、と。もちろん、あなたがそう思っていることを主はよくご存知です。その上で、それらを捨ててみることを命じるのです。
 あなたはそのような大切なものを捨てた経験があるでしょうか。その先にあるのは、捨てた人にしか分からない領域です。
 神の御子、主イエスは一体、何を捨てた方だったのでしょうか。その先には何があったのでしょうか。

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2021-08-22
8月22日「キリストはベストコーチ」

ヘブライ12:1〜3
 オリンピックが閉会し、パラリンピックが始まります。この夏、私たちはアスリートたちの輝く姿を目の当たりにしました。スポーツとは、トップの座をかけたゲームであると同時に、その背景にある人間ドラマだということができるでしょう。
 聖書は、あなたもそんなアスリートの一人であると言うのです。神は一人ひとりに独自の競技を備えており、そこで走るための専用コースが用意されています。オリンピックに多種多様な競技があるのと同様に、そこで競われるのは、誰も代わることのできないレースなのです。しかし、その競技は他の誰かと賞を競うものではありません。実は、このレースのルールは「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」走ることにあるのです。それぞれが背負う重荷は違うでしょう。そして、罪とは不信仰のことですが、それさえも、人によって悪魔が狙うポイントも違うのです。つまり、このレースは他の人の経験が参考になりません。しかし、誰にも助けを求められない孤独なレースではありません。
 あなたが、どんな形であれ、走り切ることができるように、主イエスという名の最強コーチがついているのです。

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2021-08-15
8月15日「何と戦っていますか?」

歴代誌下20:13〜17
 その日、ユダの国に大軍が押し寄せていた。ヨシャファト王は、その現実を前にして何をしたのでしょうか。そうです。彼は神の前に進み出て、祈るという行動に出ました。それは嘆きに似たものであり、完全に白旗を上げている様子が伺えます。しかし、神のみわざはそこからスタートするのです。
 さて、神からの応答は次のようなものでした。「この大軍を前にしても恐れるな。おじけるな。これはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである。」(15節)
 今、あなたには戦いがありますか?それは、病でしょうか、経済的な問題でしょうか、人生の課題でしょうか。私たちには様々な問題や課題が出ては消え、消えては出てくるものです。一般的には、それらの問題はその人の問題であって、その人固有の戦いと言えるかもしれません。しかし、主なる神は、その数々の問題を、「神の戦い」だと言うのです。
 しかし同時に、神はユダの人々にそのままボーッとしていれば良いとはおっしゃいませんでした。神が人々に求めたものも、やはり戦いでしたが、それは彼らが思い描いていた戦いとは全く別の戦いでした。
 自力で解決不可能な問題があったとしても、なかったとしても、神が求めておられる戦い、それは、一体何なのでしょうか?

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2021-08-08
8月8日「平和の原点」

詩編119:105   ヨハネ8:31-38
 何度も繰り返しこの季節に思い出すのは、「八月や 6日 9日 15日」の句です。この季節に、日に何度も心に浮かんできます。そんな中、今は、コロナ禍の中でオリンピックが行われています。
 「平和の祭典」の中で、この時を迎えることも大きな意味を持っているのかもしれませんが、そのことを日本政府はどのように受け止めているのでしょうか。大きな課題です。
 主は、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」といわれました。平和は、神の御心であり、その為に主はこの世に受肉されました。主の祈りの、「御名が、御国が、御心が…」の祈りは、主の思いが祈りとなったものです。
 今日の「真理はあなたたちを自由にする」は、神の御心への招きであり、平和への促しです。「わたしの言葉にとどまるなら」と主は言われます。しかし世の権力闘争は、平和とは対極にあります。「自分の自由」は「他者への抑圧」に容易にすり替わります。
 自由とはキリストを通しての、神との関係を離れては存在し得ないのです。わたしたちは平和の原点である「自由」は、「インマヌエル」の出来事であることを心に刻みつける必要があります。「天国は・あなたの嫌いな人が沢山いる処」でもありますから。

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2021-08-01
8月1日「自然エネルギーが世界を救う」

イザヤ2:2−5
 人類の争いの歴史はエネルギーと共にあり、これからの世界が救われるとすれば、どのようなエネルギーが必要で、私たちはどう歩むべきでしょうか。足利大学理事長であり、日本における風力発電研究の第一人者である牛山泉氏に、御言葉を紐解いていただき、平和について考える機会とします。

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2021-07-26
7月25日「新しい人生への招き」

ルカ7:11〜17
 主イエスはナインという町で息子を亡くした母親に出会いました。彼女は泣いていたのでしょう。そこで、主はおっしゃいました。「もう泣かなくともよい。」
 あなたが悲しみのどん底にいる時、他の人から「もう泣かなくともよい。」などと言われたらどんな気持ちになるでしょうか。もしかすると、感謝の気持ちではなく、「あんたに何が分かるの?」といった怒りの感情に傾くのではないでしょうか。では、主はなぜこのようなことをおっしゃったのでしょうか。
 聖書には希望という言葉が出てきます。これは、確実な未来から伸びてくる切れない糸のようなものを示す言葉です。希望というと、今から考えて、おぼろげな未来を予想して、ポジティブに捉えることのように思われがちですが、聖書の描く希望は全く違います。それは、永遠の神の都、天国と密接につながる一本の切れない線のことなのです。
 神は人に命を与え、時を定めて引き上げてくださいます。その行き先を知っているか知らないかで、「もう泣かなくともよい。」という言葉の意味が変わってきます。
 主はその天から来られたただ一人のお方。涙のぬぐわれる場所から来られた方なのです。

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2021-07-18
7月18日「何を望んでいますか?」

ルカ7:1〜10
 今日の聖書に登場するローマの百人隊長は、遣わされた場所で民に奉仕し、人々から好意を持たれていたようです。ユダヤ人のために礼拝堂を建てた、という証言からも、彼が人々に仕えるだけでなく、彼らの信じる聖書の神をも大切にしていたことが分かります。また、愛するユダヤ人たちが切に求めていた救い主が来たという話にも耳を傾けていたようです。なぜなら、天と地の一切の権能を授かっている、とおっしゃる主イエスは神の全権大使であると理解していたからです。
 私たちは神に祈り求める時、何を望むでしょうか。問題の解決でしょうか、病の癒やしでしょうか、友と仲直りするための勇気でしょうか。もちろん、神はこのような願いを聞いてくださいます。しかし、ご自身に近づくそのことを喜ぶことはするにしても、賞賛することはないのではないでしょうか。では、この百人隊長は主に何を賞賛されたのでしょうか。
 彼が求めたのは、召使いの癒やしでした。しかし、癒やしてくださいと願うのではなく、御言葉さえあれば、と神の言葉を求めただけでした。
 神は言葉によってこの世界を始められました。さあ、私たちはどうでしょう。

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2021-07-11
7月11日「新しい命の誕生」

     イザヤ43:1〜4  ヨハネ8:1〜12
 聖書はどこもが、素晴らしい示唆に富んだ、神の世界-キリストとの出会い-に満ちています。その中でも今日の記事は、9章の「生まれつきの盲人を癒す」物語と共に、福音の豊かさと薫りにおいて、白眉といえるものではないかと考えます。
 主イエスの前に立つと、この世の価値観とは何であり、福音とは何でないかが見えてきます。それと同じように、ファリサイ人と律法学者の、この世と人々に対する出会い方と、主イエスの彼らと異なる眼差しとの決定的違いが浮き彫りにされます。
 神から与えられた律法が、人間的常識の普遍性から独立することなく立ち現れます。ファリサイ人と律法学者の神と人々とに対する出会い方は、この世の価値観と並列するように見えます。
一人の姦淫の現場で捕らえられた女性を、自らの正義の秤によって、抹殺に値すると断じ、イエスを「罠」にかけようとします。そんな中で、この女性は主イエスにより、「新しい命に誕生」します。
 「わたしの目にあなたは価高く貴く、わたしはあなたを愛し…」(イザヤ43:4)の世界がここに現れます。新しい命の誕生です。主は今もわたしたちの前に立たれます。この女性が新しい命に生きたたように、「生きよ!」と我らに語られる主が共に。

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2021-07-05
7月4日「神にできない唯一のこと」

エフェソ3:14−21
 使徒パウロはエフェソの教会のために熱心に祈りました。そのあまりの情熱は、神を前にして膝をつくほどだったのです。
 祈りはまず、神の御名の権威がすべての人に与えられている、との大胆な宣言から始まるのです。そして、人に内在する「内なる人」を強めていただけるよう祈ります。また、キリストの愛が、その広さ、長さ、高さ、深さにおいて、どのようなものかを理解し、その豊かさに触れて満たされるようにと続きます。
 もし、パウロが私たちのために祈っていたと考えたら、いかがでしょうか。私たちの「内なる人」はどんな状態にあるでしょうか。また、私たちはキリストの愛がどれほどのものかを理解しているでしょうか。そして、私たちは満たされているでしょうか。
 仮に、そのすべてにおいて否定的な回答があるとするならば、なぜパウロがそのことを熱心に祈ったのかがわかるでしょう。そうです。ここで彼が祈っている内容は、私たちの日々の歩みにおいて欠かすことのできないものだからです。
 私たちの想像をはるかに超える神の素晴らしいみわざが今ここにあると。信じることができるでしょうか。

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2021-06-27
6月27日「向こう岸の景色」

マルコ4:35〜41
 主イエスは御言葉を聞くだけの人、受け入れる人の違いを教えられた後、「向こう岸へ渡ろう。」と弟子たちを導いて嵐吹く湖へと舟を出発させました。
 果たして向こう岸には何があったでしょうか。そこには悪霊からの解放があり、病の癒やしや死者の蘇り、そして必要の満たしがありました。そこは天国のようでした。次に舟に乗る時も、やはり試練がありました。しかし、前回の向こう岸と今回の向こう岸は全く違う展開を見せました。そこにあったのは十字架でした。
 私たちの人生も、試練という名の嵐は一度きりではありません。さらに、予想だにしない出来事が起こってくるときもあるのです。十字架を前にして、何もかも終わりだ、と弟子たちが思ったような問題に遭遇することもあるでしょう。
 主は試練を経由してたどり着く「向こう岸」で何を見せたかったのでしょうか。それは、復活の希望です。何があっても大丈夫という平安です。主が数々の奇蹟を見せたのは、全てを支配する方が共にいて、必要を満たし、問題を解決してくださることを教えるためでした。そのことを通して、弟子たちが思い煩うことのないためです。主は弟子たちに、そしてあなたに言います。「まだ悟らないのか」

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2021-06-27
6月20日「あきらめない神さま」

マタイ18:12〜14
 主イエスは人間のことを羊にたとえて話されました。そして、ご自身は「良い羊飼い」だとおっしゃるのです。
 羊の習性を知っていれば、牧者がどのように振る舞うかがわかるでしょう。群れを好み、集団で無自覚に追従してしまう癖のある羊たちを導くために、牧者が先導することは少なく、むしろ後方から羊たちを視界に入れて進むのです。もし、群から離れた羊がいたならば、杖などで正しい位置に戻します。それでも、遠近感を捉えるのが苦手な羊にとって、群から離れ、迷子にならないことは至難のわざなのです。
 群れを好む羊がたった1匹になると、とてつもないストレスがかかり、気が狂ったようになります。羊一匹を捕まえるよりも、100匹を捕まえるほうが楽だ、と言われるほどです。罪という名の狂った世界観で歩む羊、つまり人間が、神の群れに立ち帰るのが容易ではないのと同様です。
 しかし、主は憐れみ深く、自らの時間と命を削って、その1匹を探しておられます。なぜなら、他の99匹では代わることのできない価値があるからです。
 あなたは愛されています。何をしたか、どんな人か、は関係ありません。あなたがあなただからです。

※ 動画はありません。ご了承ください。

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2021-06-13
6月13日「まことの食べ物」

申命記8:3   ヨハネ6:41〜51
 「ババア食ったジジイ、縁の下の骨を見ろ!」とは、『カチカチ山』最後にある、タヌキのセリフです。タヌキ汁と思い、「旨い、うまい」と、長年連れ添ったおばあさんを食べる!そんなおじいさんの姿と自分が重なります。
 生まれてから75年!洗礼を受けて55年!結婚して48年!牧師になって47年!…。両親の、姉妹の、友の、妻の、子供の…。数限りない人の肉を貪り食って、そして誰よりも、キリストの肉と血を貪り食って生きて来た自分を想い巡ら唖然としています。
 人は、生きとし生けるものはすべて、他の命を食することなしに生きていくことは出来ません。そしてキリスト者とは、キリストの血と肉に、すなわち「命」を食して生きていることを知る者のことです。
 「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」とイエス様ははっきりと宣言されます。ここに真実の神の愛が明らかにされます。
 マザーは「生きている愛は傷つきます。イエス様はご自身の愛を証するために わたしたちの身代わりとなって 十字架の上で死なれました。~」と言っています。主は生きていて、今もわたしたちに手を指し伸べ、今も、ご自身を与え続けておられます。主こそ、御言葉こそは「まことの食物」なのです。

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