宣教
2023-11-19
11月19日「神がそこにいたなら」
マタイ25:31~46
聖書は主イエスの十字架と復活によって、すべての人々が愛されていること、そして主を信じるすべての人が永遠の命を得ることを約束しています。しかし、ところどころに、行動による裁きが描かれていることを、その厳しさのあまり、無意識に読み飛ばそうとしてはいないでしょうか。
主はなぜこのような行動規範のようなものを命じているのでしょうか。そして、それが裁きの日にも判断材料になるとおっしゃるのはどうしてなのでしょうか。
聖書のヤコブの手紙は「行い」を大切にしている手紙です。ヤコブがこの手紙を教会に送ったのは、主のたとえ話と同じことを伝えるためでした。この手紙は、当初聖書に含むべきか、議論の対象となりました。信じることによってのみ、という約束と矛盾しているように見えたからです。しかし、初代教会の迫害に対する危機的状況の中で、聖霊が与えられているかどうかは重要な判断材料でした。そして、心から信じているかどうかは行動に現れることが徐々に明らかになってきました。
主は互いに愛し合いなさい、と命じられました。それは、各自の頑張りではなく、聖霊の働きによるのです。
2023-11-12
11月12日「赦しから始まる新生」
イザヤ35:1~2 ヨハネ9:1~12 イザヤ書35:1~「荒れ野と乾いた地とは楽しみ、砂漠は喜び花咲き、サフランのようにさかんに花咲き,かつ喜び楽しみかつ歌う」の歌は、聖書を貫く奇跡の生命線をよく現わしています。
重度の障碍者施設と、養護学校で働いていた青年の時、「なぜですか?なぜ障碍を持った方が?」と、何度も問い尋ねました。人間の物差しでは決して理解できない事柄でした。
大学での福祉の学びも、何の助けにもなりませんでした。悶々と日々を過ごす中に、この御言葉が飛び込んできました。決して承認できることではありませんが、全く新しい世界がそこに繰り広げられていきます。信仰によってのみ明らかにされる、驚きの世界が明らかにされていました。
因果応報から全く解き放たれた世界がここにはありました。このことを確かめずにはいられませんでした。意を決して神学校に入りました。あれから55年の月日が経ちました。
「なぜ?どうして?」の世界に引き戻されそうになりつつも、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」との宣言の中にいる私たちです。この驚きの宣言の中にわたしたちの人生も存在するのです。
2023-11-05
11月5日「あなたは信じますか?」
ヨハネ11:25~26
私たちは、誰もが死を迎えます。どんなに医療が発達しても、それを回避することはできないでしょう。草は枯れ、花はしおれる。そんな有限な世界に生きながら、自分自身も有限な存在であるにも関わらず、世界中の言語に「永遠」という言葉があります。見たことも、行ったこともないのに、なぜ「永遠」という価値観がある特定の人々だけではなく、普遍的に知られており、また、クリスチャンでない人々でさえ「天国」は良いところだ、というイメージがあるのでしょうか。これは不思議なことです。
しかし、この朧げで不思議な現象を、地上に表し、歴史的事実にした方がいます。それが十字架と復活のイエス・キリストなのです。
主は事あるごとにおっしゃいました。「信じなさい」「信じるか」と。聖書と、その神が求めておられるのは、知ることではなく、信じることです。聖書があるのは、私たち人間が全部を暗記するためではなく、そのことを信じるためです。また、神が人となって来られたのも、自己顕示欲の塊だからではありません。その方の生き様によって、神を信じるようになるためです。
あなたは天国を、そこから来られた、とおっしゃる方を信じますか。主はそのことを問うのです。
2023-10-29
10月29日「十字架の赦しの神秘」
マタイ27:27~31 ヨハネ3:16
イエス様の十字架の赦しについて、ある神父が残した言葉が忘れられません。「われわれは、肉となりたもうた神であるキリストが、イスラエル民族の最高の倫理的、宗教的権威を握る人たちによってとらえられ、詐欺師、うそつきとののしられた事実だけでも、どれほどの侮辱と辱めをともともなう卑下であった想うべきである。福音書の叙述になれてしまうと、それがどのようなものであったかを、十分に考えない。まして、これらの場面に加えて、むち打ちの刑を受けて痛々しい状態にあったキリストをこのようにあしらうことの残酷さ、イスラエル(ユダヤ)人の群衆の侮蔑と狼藉、奴隷や盗賊にしか用いないいまわしい架刑台上に裸をさらされること、臨終にもだえる者に対する嘲笑、愚弄、侮辱などを想いうかべなければならない。・・・中略・・・これらの虐待は、人類の救い奥義の目的からすれば、必要であったわけではない。イエス様は知りつつ、自由に選んだのである。イエス様が人類の罪を消すために、血なまぐさい犠牲をささげなければならなかったとしても、この至上の犠牲が、これほどのさげすみのなかで行われる必要は少しもなかったのである。われわれは、これを神の愛の神秘としか見ることはできない。」神様の愛が、それほど深いことをあらためて知らされる。
2023-10-22
10月22日「あなたはどこにいますか?」
ルカ15:11~32
主イエスが語られた放蕩息子のたとえ話は、神と人の姿が分かりやすく説明された傑作です。人がどのような状態にあるか、それに対して神の態度はどうか、また、兄という存在を通して、すでに福音にあずかっている人々への眼差しも欠くことはありません。
そして、このたとえ話には、人の霊的段階を指し示す指標としても読むことができる、というもう一つの側面があるのです。
神の国から離れた人間が自己中心的に生きる姿。そして、困難の中で我に返る姿。また、ファリサイ派のような熱心さと努力の塊のような人々の姿。全編を通して、神を連想させる父親の姿。
これらの姿には、人間の霊的段階が示されています。栄光から栄光へ、聖霊が導く最終的なステップは、父親の姿です。
私たちは今、どの霊的ステップにいるのか。そこでは何が必要なのか。主イエスは、このたとえ話を単なる救いの話にとどまらせず、日々のクリスチャンライフにおける自己の客観視にも用いることができるような味付けをされていたようです。
主はおっしゃいます。「あなたはどこにいるのか。」
そこが主と出会う場所です。
2023-10-15
10月15日「幸せはここにある」
Iヨハネ4:9~12
キリストによって、私たちが「生きるように」なるため、主は御子イエスをお送りくださったのだ、と聖書は語ります。心臓が動く、血が流れる、といった生物学的な生きる、ではないことが語られていることは、すでに生きている人たちに語られていることからも明らかです。
罪の与える報酬は死だと聖書にあるように、生物として生きていることと、キリストにあって生きていることとはまったく別のことなのです。そして、罪は、私たち人間を霊的に死んでいる状態に陥れるために、自分が危機的な状態であり、死んだも同然であるとさえ気づかせないのです。
死は死を呼ぶため、朽ちていく物質的なものや、いずれ草のように枯れていくものに救いがあると、人は救いを死に求め続けているのです。困窮した方が、死んで楽になりたいと思ってしまうのはこのためなのかもしれません。
しかし、救いは物質的なものや朽ちていくものにあるのではなく、「ここ」にあるのだと聖書は宣言します。そして、「ここ」とは、まさしく主のもとです。
救いや助けを他に求めていませんか。あなたに本当に必要なのは、永遠に変わらない方、ただお一人です。
2023-10-15
10月8日「人生最大の賭け」
列王記上8:27 エフェソ3:14~21 パスカルは39歳の若さで天に召されたが、彼の肉体は健やかなところは一箇所もないほどに信仰の弁証のために捧げつくされたという。彼が亡くなる時、身に着けていた服の襟の中に縫い付けられていた『覚え書き』には、彼の凝縮された人生のすべてが、短い文に示されています。最後には、「われ汝の御言葉を忘るることなからん。アーメン」と。
哲学者にして、超一の科学者であった彼は、「我々は『神あり』と賭けるのか。『神無し』と賭けるのか?」
と問い、「勝利の道は、神あり」とすべきことに決着がついていると断言している。
「わたしたちはすでに、人生という航路に船出してしまっている」のであり、先立ち給う「道であり、真理であり、命である」お方の御手の中にあることを受け入れ、人生の最重要課題「神あり」の恵みの前に立たされていることを知らなくてはならないと。
わたしたちは「わたしたちの信仰」という独自な信仰を与えられているのではなく、恵みの現実、「主の祈り」、「使徒信条」を与えられています。
パスカルは、「歓喜、歓喜、歓喜の涙」と告白します。わたしたちは、主によって、今も、「キリストを内に住まわせる」信仰により、いかなる時にも、共に生きる喜び、聖霊の恵み中にいるのです。
2023-10-01
10月1日「天国は神のもの」
マタイ7:21~23
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。」これはショッキングな言葉です。「主の名を呼び求めるものは誰でも救われる」のではなかったのでしょうか。そして、天の国に入れなかった人々に主イエスはこう言うであろうと教えています。「不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。」
神の国という以上、国ですから法律があります。その権威と決定権はすべて主なる神にあります。それを御心と言うのでしょう。つまり、神の国の法律に従わなければ、神の国に入ることはできないのです。
私たちは罪人であり、神の国の法律に従うこともあれば、従えない時もあります。地上の国の法律のように、法の抜け穴は存在せず、見つからなければ良いというものでもありません。私たちの一挙手一投足、そして心の中までも摘要されているのです。
私たちは経験してきたはずです。御心に沿ったときに素晴らしい実りがあったことを。御心に背いたならば失敗と後悔があったことを。
主は私たちに神の国をくださると約束されています。それは能力や努力の結果ではなく、信仰の結果であるとおっしゃるのです。
2023-09-24
9月24日「命を潤される神」
ヨハネ4:1-15
今日の箇所の「生きた水」とは、7章37節以下の解説によると、聖霊の事である事が明確に示されている。主イエスが私たちに聖霊を与えてくださり、もう決して渇かない者にしてくださる。霊によって私たちの命そのものが潤される。それが生き生きとした神の恵みの内に生きられる永遠の命になる、という事が示されている。
私たちの地上での体は、未来永劫続くものではなく、いつかは朽ち果てて死んでいく。しかしこの身が朽ち果てるとしても、決して滅びる事なく、神の恵みの内に生きられる。神の恵みの内にあって、永遠の喜びの中にもう私たちは置かれている。主イエスに在るその命に生きさせて頂いている。これが永遠の命に生きる私たちの姿である。この命を全ての人に与えようとする、神の平和のご計画の中を私たちは今、歩んでいるのである。
この神の必然という大きな計画の中に、私たちは生かされ日毎に潤されている。主の御言葉と、ただ神がそのご計画に従い送って下さるその聖霊によって、私たちは永遠の命を与えられている。
だから自分ではなくキリストに期待して、神のご計画のままに進んでいく歩みを今後もなしていきたい。 弘前教会 渡邊宣博牧師
※本日のメッセージ動画は非公開です。ご了承ください。
2023-09-24
9月17日「朽ちない勝利」
Iコリント9:24-27
使徒パウロは宣教について、できることは何でもする、と伝えています。そして実際にそのようにしてきた彼です。
スポーツ選手が勝利を目指してできることは何でもするように、パウロはキリストを伝えることにおいてもその姿勢を引き合いに出しています。
しかし、スポーツは朽ちる冠のために、福音宣教は朽ちない冠のために、と明確に区別しています。
あなたが全力で取り組んでいることは何でしょうか。日々、祈り求めていることは何でしょうか。それは朽ちない冠のためでしょうか。それとも、朽ちる冠のためでしょうか。
私たちは、病の癒やしを祈り、経済の祝福を祈り、ライフプランの成就を祈り、その他、様々なことに全力を注いでいますが、それはすべてこの地上での出来事であり、肉体も、世的な願望も、その全てがやがて朽ちていくものです。その勝利は不確かで、勝つ時もあれば負ける時もあります。その不確かさは信じて歩むにはあまりにも脆い対象です。
世に勝ったキリストの言う勝利とは、そのような曖昧なものではありません。死は勝利にのまれてしまった。これが揺るぎない勝利であり、信仰の根拠です。
2023-09-24
9月10日「祝福を選ぶ」
申命記14:28~29 使徒20:34~35 残念なことに教会の歴史は、主の御心を体現するものでは、必ずしもありませんでした。というより、残念なことにその反対の方向を選んできました。原点を見つめ続け修正する以外に、御心である信仰を生きることはできません。この世の重力に負けていることに気づかず疑問すら持ちませんでした。人間の、私たちの思いは、「天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を~高くこえている」(イザヤ55:8)ことを知ることです。
パウロがエフェソに別れを告げるとき、遺言として伝えたことは、「主イエスご自身が『受けるよりは与えるほうが幸いである』と言われた言葉を思い出すように。」ということでした。自らの愚かしと、世界との対極に生きられた主の御心を思わされます。
人は得ることを求める結果、失うことのなんと多いことでしょう。人間の歴史は、得ることに嗜癖するため、崩壊していった痕跡で満ちています。
死海には、生き物が住むことが出来ません。ガリラヤ湖と対照的です。「人の価値は、その人が集めてものではなく与えたものによってはかられる」(アインシュタイン)と。キリストのもとにすべてがあるのは、キリストが全てを与えられたからなのです。乞食のようにではなく、主の招きに応え!です。
2023-09-03
9月3日「正しき神の御名」
出エジプト20:7
主の名をみだりに唱えてはならない。この十戒の意味をどれほどの人が理解しているでしょう。かつて、ユダヤの民は「神の御名を口にしない」ことを選択しました。長らく、主の御名はその偉大さから敬遠され続けてきました。1年に一度、大祭司だけが至聖所の奥で口にすることが許されましたが、一般的な人々はその御名を死ぬまで耳にしたことはありませんでした。はじめてモーセに告げられた、神のその御名は「ある」という名でした。
神は長い長い年月の間、至聖所の奥に「ある」状態でした。すなわち、人々の生活の中には「ない」のです。それで、人々は神なき世界に神を求め、偶像を探し求めました。そこに救いなどありもしないのに。
神の御名を口にしないことが「みだり」ではないことの証だと信じ切っていた人々の只中に、インマヌエルという名を冠する方が与えられました。「共にいる」という名が示すように、この方、主イエスは至聖所の奥ではなく、自ら歩み寄り、人々と関わってくださいました。それは十字架と復活によって頂点を迎えます。
神は「ある」御方。喜びの日にも「ある」悲しみの日にも「ある」死の影の谷を歩もうとも、そこに主は「ある」方なのです。
2023-08-27
8月27日「従うということ」
ヨハネ21:20~23
十戒には「神以外を神としてはならない」と命じられています。ところが、私たちはいとも簡単に他のものを絶対視してしまう傾向があり、そのことが神となって人生を支配する道へといざなわれてしまいます。
ペトロは、十字架を避け、主イエスを知らないと三度偽証しました。彼は、あの大切な方、一緒に死ねると豪語するほどに慕っていた方を、簡単に裏切ってしまうのでした。その時、彼は神以外のものを神としていました。
復活の主イエスに問われると、今度は三度「愛しています」と信仰告白しますが、弟子のヨハネが目に入ると、再び神以外を神としてしまうのです。
そこで、主はペトロを通して、私たちにも語ります。「わたしに従いなさい。」と。
実際、この世界に、その人生に、立ちふさがる壁があったとき、それは神以外を神とする選択肢がやってきたことを意味します。神以外を神とする方が、論理的に見え、科学的に見え、効率的に見えるものです。時には、信仰という物差しが、かえって神以外を神としてしまうことさえあるのです。そんな時こそ、「わたしに従いなさい」という声も、同時に聞こえている時なのです。
2023-08-20
8月20日「渦中で安眠できる」
詩篇3:1~9
主よ、それでも
あなたはわたしの盾、わたしの栄え
わたしの頭を高くあげてくださる方。(3:4)
ダビデがアブサロムを避けて逃れたときの心境を、詩編3編で紹介している。彼は愛する息子の一人に突然襲撃されて、命からがら逃げて行き、自分に敵する者がいかに多いかということを思い知らされた。誰が見ても「もう駄目だ」とそう言われるような状況下で彼は神様の前で深く息をつく機会をもち、神様への信仰告白している。そしてその後ダビデがその状況下で眠ることができたと歌う。ダビデは、敵に取り囲まれて、そして眠っている。いつ敵が襲ってきて自分の命が亡くなるかもしれない、そういう状況のもとで、彼は昨夜寝た。このまま目を覚ますことなく終わってしまう可能性もあった。でも彼はおそらく死んでしまっても、安心できる。それは死んでもなお、「主がわたしを見捨てられない」と知っていたから。主の御前での息をつけたこと、そして安心して眠ることができたこと、そのために主が夜通し守ってくださったことを彼は喜び歌う。復活の朝が、新しい命に生きる朝がわたしたちにも備えられている。
2023-08-13
8月13日「剣を鍬に、槍を鎌に」
イザヤ2:1~5 マタイ6:9~15
8月は、「平和の月」として、平和のために、全国の心ある人々と共に、平和のために祈りを合わせ、考え、行動する時と覚えられています。そしてこの8月は、日本にとって、日本の教会にとっても、決して忘れてはならない、日本の教会の、悔い改めと平和のための宣教の原点とも言うべき日です。
78年前のこの時、そしてこの月のことを、「八月や六日九日一五日」と謳っていることは有名です。二つの原爆と,敗戦記念日です。そしてこの8月は戦後日本の今を生きるわたしたちが、決して忘れてはならない、平和を生きるための原点です。
全世界が、愚かな歴史をなぞるかのように、時を後ろに向かって進めているかのようです。ニューヨークの国連本部の広場の「イザヤの壁」に、『彼らは、剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする』の御言葉が刻まれています。
世界中の多くの人々が、日毎に祈る『主の祈り』は、「われら」の言葉が繰り返されます。「共に生きることの宣言」が、『主の祈り』です。 主イエス・キリストを通し、神の家族とされている私達です。持てる武器を、「共に生きる鋤と鎌」に変え、歩む祈りに帰る時です。平和は、他の誰かがもたらすものではなく、わたしたちに委ねられた使命なのです。
2023-08-06
8月6日「◯◯、主の喜びです。」
列王記上19:18
「しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残している。」
私たち家族は、現在スポーツ宣教に携わりながら日本縦断宣教旅行をしています。このようにして出発した宣教旅行も1年7ヶ月が過ぎ、1年半で約109教会を訪問し、たくさんの教会の祈りに支えられ前進してきました。また、スポーツ宣教を通して各地を訪問するたびに神様が一貫して聞かせくださる声があります。
日本に陰府の門も打ち勝つことのできない教会を据えられて、主はその教会の存在を喜び、誇りに思ってくださっているということです。そして、その地域に入ると天のお父さんは聖霊を通して語りかけてくださいます。
「お帰り」そして「ここであなたを待っていたよ」と。その優しい語り掛けは、言葉で言い表すことができないくらい私の心を温めてくれます。
愛する神の家族の皆さん。天のお父さんは教会堂に限らず、あらゆる生活の現場で私たちを待っていて、歓迎し、温かく迎え入れてくださいます。日本に教会を据えられた主、花婿は花嫁のために決してこの日本を諦めないのです。
2023-07-30
7月30日「平安が欲しいなら」
マタイ6:33~34
偉大なクリスチャンの先人たちの物語は、私たちの心を燃やし、信仰を増し加えてくれます。彼らはなぜ、偉大なのでしょうか。能力があったのでしょうか、最初から備えられた大きな働きを引き継いだのでしょうか、いいえ、彼らは使徒たちと同じように、普通の人でした。しかし、彼らを偉大たらしめ、普通じゃなかったのは、彼らが神に全幅の信頼を寄せていた、ということだけです。
何よりもまず、神の国と神の義を求めることは、この世界の価値観に慣れきった私たちには理解不能であったり、難しかったりします。しかし、加えて与えられる、という神の法則が私たちに勇気と希望を与えてくれます。
過去から学び、予測を立て、自力で努力することは素晴らしいことですが、想定の範囲内の結果か、少しだけ良い結果が与えられるくらいが関の山でしょう。しかし、神が加えてくださるのは、私たちの常識を軽々と超えていく神の国の扉が解放される体験です。
信仰の成長とは、祈りが熱くなることでも、人一倍奉仕をすることでも、献金額を増やすことでもありません。それは、すべてを主に委ねる、という成長の結果として与えられるものなのです。
2023-07-23
7月23日「どこの誰ですか」
マルコ6:1~6
日々の生活の中で、あなたはどんなことに神の臨在を感じますか。超自然的な奇蹟ですか。それとも、人と人の間に愛が現されたときでしょうか。もしかしたら、祈りが聞かれたときかもしれません。でも、こう考えたことはありますか?「これは神がしてくださったのだ」と思えないところにも神がいらっしゃるということを。
主イエスは神でありながら、大工だと言われました。大工だったからです。この世界の常識では、大工は神ではありません。ナザレの人々は当たり前の反応をしました。しかし、主はそれを「不信仰」だと感じ、しかも驚いたというのです。
神であるはずがない。しかし、実際には神ご自身であった。それは、大工という職業、ヨセフの子という出自、その村からは何も出ないと馬鹿にされるほど小さく貧しい寒村で起こった出来事です。
あなたが考えている神の臨在。もちろん、それは確かなものなのでしょう。しかし、そうでないところにも神は働かれるということを知ってください。
全宇宙をお造りになった全知全能の神が、あなたを選んだ。そのことこそが、まさしく奇蹟であり、当然そうなる、の世界を超える出来事なのです。
2023-07-23
7月16日「成長させてくださるのは神様」
Iコリント3:5~7
17世紀半ばにヨーロッパのカトリック教会で「ヤンセニズム」という考えがはびこりました。これは端的に言えば、「今のあなたのありのままの姿では足はりない。だから、成長して救いを完成させるためには、自分の努力で急いで信仰の高みまで上がって来い。」というものです。このような考えは、教派や宗派や国などを選ばず今もなお信じる群れを脅かしていますが、そこに「福音」はありません。
スペインのバルセロナに「聖家族教会」という大聖堂があります。今から141年も前に、天才建築家アントニオ・ガウディの構想を得て建築が始められた未完の大聖堂です。工事の速度は、亀の歩みのようなもので、遅々として進まぬ工事の進捗状況に対する周囲の焦りの声にもかかわらず帰天する直前のガウディは、このように言ったそうです。「神様は完成を急いではおられない」と。私たちの信仰の歩みにも同じ事が語られているように思えます。
私たちは、ただイエス様が、罪のために十字架の上でご自身の肉を裂き、血を流されたことを信じ受け入れ信仰の告白することによってのみ救われるのです。そして信仰の成長も神様ご自身の業であり、慈愛の神様はその人でなければならないペースで一人ひとりを導いて下さいます。
2023-07-23
7月9日「喜びの教会」
イザヤ52:7 使徒:11:19~26 伝道を開始した最初のころ、教会主題を「アンテオケの教会を目指して」としたことを思い出しました。何よりも、聖書が明らかにしている、教会像を生きることを祈った結果でした。
ステファノの迫害をきっかけに、エルサレムを逃れた人々は、なんと、「福音を告げ知らせながら巡り歩いた」のです。このことがきっかけとなり、福音は全世界へと広がって行ったのです。
エルサレム教会は、主の昇天後、およそ25年で衰退したが、アンテオケ教会は成長し続け、異邦人伝道の拠点となり、教会発展の基地となりました。「クリスチャン」と呼ばれるようになったのも、このアンテオケにおいてでした。
この教会は、①伝道する教会、 ②すべての人を受け入れる教会、③働くことを奨励する教会、④惜しみなく献げる教会として歩みました。いつも外に向かって開かれている喜びの教会だったのです。
「キリストと共に在る者」としての、喜びに満ち溢れ、全ての人と共に、特に虐げられている人々と共に生きる、愛にあふれた、生き生きとした命に満ちた群れでした。キリストの福音の生きた姿が、アンテオケ教会です。主の愛されるすべての人々と、その信仰を携え、受け継ぐわたしたちです。