宣教
2025-03-16
3月16日「福音の本質(参加)」
エフェソ2:1~10
主なる神は、私たちをご自身に似せて創造されました。その創造力、自由さ、権威を持った行動の選択は、神由来のものです。神は、私たちを形式張ったプログラムに参加させるために創造したのではありません。その個性を活かし、オーダーメイドで計画されたユニークな人生を歩むために造られたのです。
旧約聖書の預言は、主イエスにおいてことごとく実現しました。残されたものは、主の再臨による神の国の完全な完成のみとなっています。そして、ヘブライ語で預言を意味する「ナビーイーム」という言葉は、ナビの語源となったことでも知られ、神の約束の確かさと、私たちの人生の指針として聖書の御言葉が必要であることを示唆しています。
主イエスの十字架と復活によって示された神の愛を信じること。これが救いの条件であるのに対し、御言葉の実践は、救いの条件ではありません。しかし、あなたが神の計画に参加するならば、神が実在し、御言葉が真実であることを知るでしょう。さらに、主が十字架と復活というユニークな人生を歩まれたのと同様に、神がデザインされた、あなたの個性を爆発させる道を歩む喜びに出会うことになります。
無学の普通の人が世界を変える人となった。主イエスから始まった出来事は弟子たちを経由し、歴史を作り上げ、今、あなたのところまで来ているのです。
2025-03-09
3月9日「今、あなたは」
イザヤ6:10 ルカ15:11~32
「人生一寸先は闇」という言葉があります。高校生の時、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり…」(平家物語)や、「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず…」(方丈記冒頭)の言葉に触れ、感動しました。そこに自分がいました。
人生は不可解だ、闇の中、納得できない中でいたのです。「諸行無常」の思いが、至る所で響き渡りました。「空の空 空の空 一切は空なり…」の『伝道の書』が心に響きました。
創世記1章は、混沌と闇に向かって、「光あれ」と、光を創造された神を明らかにしています。が、
自分の物差しと全く異なる世界とでした。それは,高校受験に失敗、義塾に入学した、神様からの「ご褒美」であったことに気づくことができたのは、それから長い年月を経てからでした。
「一寸先は闇」の世界から、「一寸先は光」の世界と出会うまでには、沢山の時を必要としました。「放蕩息子」の中に、自分を見出すのには、多くの時と、多くの方の祈りが必要でした。自分の思うようになっていたら、とんでもないことになっていました。後足で砂をかける人生に別れを告げ、「父のもと(故郷)に帰ることができたのです。「今、ここで、ありのままのあなたは!」神の愛の中です。
2025-03-09
3月2日「福音の本質(関係)」
ヨハネ13:34-35
初代教会の本質の一つは「関係」です。大切にされたのは、父なる神との関係、そして隣人との関係です。しかし時代は進み、ローマ帝国で国教となってから、やがて教会は旧約時代の神殿に見られるような形式的なものに変質していきました。
町の真ん中に大聖堂が建立され、ほとんどの人が幼児洗礼を受け、町中の人が教会に行くのです。教会暦が定められ、文字の読めない人々のために教会暦を色で表す典礼色が季節ごとに町にあふれ、今が受難だ、復活だ、と分かるようになりました。そのすべては、教会に来るように、という配慮からでした。
しかし、主イエスは大聖堂に来るように、神殿に来るように、とはおっしゃいませんでした。私のもとに来るように、私に従いなさい、とおっしゃったのです。事実、エルサレムで迫害が起こり、むしろ散らされていった先々で教会が誕生していきました。
私たちは日曜日の数時間で素晴らしい恵みと祝福をいただきますが、それが全てではないのです。むしろ、月曜から土曜までのほうが、圧倒的に時間が長いのです。時間的に見れば、私たちのメインはそちらだと言えるのではないでしょうか。そして、御言葉に立って歩み、聖書の真実性を体験し、隣人との交わりを深めることは、教会の中にも外にもあるのです。
主はインマヌエル。あなたが行く先々でまことの神と出会う機会が与えられているのです。
2025-02-23
2月23日「本質と文化の実」
マタイ7:15~20
初代教会の本質を学び始めてから、もうそろそろ8年が経とうとしています。本質は根っこの学びであり、根がしっかりと張っていることで、幹が立ち、豊かに実るのです。
主イエスは、実りによって良いものと悪いものを見分けるように、と教えられました。一見すると、根や幹ではなく、実りだけを見て判断するように感じてしまいます。しかし、主は実りだけを見るようにおっしゃったのでしょうか。
日本は海外の実りだけを見て、社会を構成してきました。幸福度が高い国があると聞けば、その方法を、経済大国だと聞けば、その方法を、といった具合です。民主主義や人権感覚でさえ、自ら獲得したものではありません。今、そのほころびが徐々に広がっています。これは国だけの問題ではなく、組織や、もちろん教会の共同体の形成にも影響を与えてきました。
海外の教会でリバイバルが起こったとなれば、その方法論を持ってきて、一時的な盛り上がりだけを見せて消え去っていくのが常でした。
主が実りによって見極めよ、とおっしゃったのは、どうしてその実が実ったのか、その本質である根っこと、それによって生じた幹としての文化を観察するようにおっしゃったのではないでしょうか。
キリストの体として、私たちがユニークに歩むためには、他の人や組織の実りの真似をする必要はありません。むしろ、根に注目すればよいのです。
2025-02-20
2月16日「み足のあとを」
マタイ7:13~14
難関校に入る時「狭き門」という言葉をよく耳にしました。倍率が高く、一握りの優秀な人しか入ることを許されない場合に使われる言葉でしょう。では、主イエスはこの言葉を誰に向けて語られたのでしょうか。
主の時代、信仰的にも、倫理的にも優秀な人々がいました。ファリサイ派の人々です。また、律法学者の中にも優れた人物がいたことでしょう。これは、誰でもなれるものではありませんでした。ファリサイ派には超人的な努力と忠実な信仰が求められ、律法学者は聖書をすべて暗記し、理解した上で、民を導く法の整備ができる人たちです。まさに、狭き門をくぐり抜けた人たちでしょう。
一握りの優秀な人々、という価値観で「狭き門」と言うならば、山の麓で主の言葉を聞いていた人たちは広い門に位置する人たちであったのは間違いありません。では、主が望まれるのは、一部の優秀な人達なのでしょうか。
そうであるならば、主はなぜ罪人と一緒に食事をし、病に冒され、律法を守れなくなった人々に寄り添ったのでしょうか。それは「狭き門」をくぐるために必要なのは、人間的な尺度で言う優秀さではないからです。
主イエスを信じて従う人生は豊かにされます。しかし、迫害があります。この世の価値観とは異なる側面を多分に有するからです。そして、それらを実践するとなれば、どうしても必要なことがあります。それは聖霊を受けることです。
2025-02-20
2月9日「祝福の人生を生きる」
イザヤ43:4~5 ルカ6:27~31
あなたは、「自分の人生を生きている」という実感がありますか?ともすると、「自分を生きていない」と感じてはいませんか?1日を、「主が共に、主と共に、主に愛されている自分と共に」と告白をし、続いて「主の祈り」で始めてみませんか?
「わたしの目にあなたは値高く貴く、わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)の御言葉に支えられて始める1日にしてまいりましょう。
わたしたちは何処で生きているでしょうか?自己嫌悪と後悔の中に留まってはいけません。いつしか自分の住まいとなってしまっている「自己嫌悪や後悔に別れ、主の約束に歩み出しましょう。
一度きりの人生の主役を、過去や他人に、後悔に支配される現実に別れを告げる時です。「わたしの人生」は、神様がわたしに下さった祝福のもとに在るのです。サタンの策略に絡めとられてはなりません。「わたしの人生の主役は、主と共なるわたし」であることを心に刻みましょう。
主は、わたしの人生を、ご自分が与えた祝福のもとに取り戻すために、十字架つけられました。
自分の人生を、サタンに、人手に渡してはいませんか?「値高く、貴い」人生の主役はあなたです。御手の中の自分と出会う日々を、共に歩みましょう!
2025-02-20
2月2日「最も良いもの」
マタイ7:7~12
求め、探し、叩く。そうすれば、望みのものが手に入る。主イエスはそのようにおっしゃいました。あなたが今、一番望んでいることは何でしょう。そう聞かれて、あなたが思い浮かべたもの、それがあなたの信仰の対象です。
この聖書の箇所を、私たちの欲しいもの、と読むならば、主のおっしゃったことの半分も理解できていないでしょう。そして、それが手に入れば喜び、手に入らなければ沈むだけです。それは自己中心の現れだからです。聖書は私たちが自己中心から解き放たれ、神中心に歩んで圧倒的な事由と平安を手に入れることを伝えており、主もそのことにフォーカスされたのです。
事実、ルカの同様の箇所の最後は、聖霊を与えてくださる、という言葉で締めくくられています。つまり、聖霊を求めることは、神の視点から見た最上級の贈り物だということです。
唯物的なものを手に入れたとして、それで永遠の命、平安、自由が与えられるでしょうか。そうではなく、唯物的なものを手放してこそ、神を第一に置くことができるのです。これが、神の国と神の義を求めるということに続く、主の教えの焦点です。
主は祈りを必ず叶えるとおっしゃった、十字架で命を捨ててくださった、後で分かるとおっしゃった。数々の約束を魂の領域で理解するために、聖霊の満たしを求めましょう。
2025-01-26
1月26日「憐れみの十字架」
マタイ7:1~6
人に対して納得ができない時、思い通りにならない時、どのように対処していますか。飲み会に行くと、そこにいない人の悪口ばかりで、もし自分がいなければ、同じように言われているのだろうと感じたものです。かくいう私も、人の批判については天才的です。また、好きなチームの評論についてもプロ級です。キリストを信じてもなお、人を裁くことをやめられない自分に出会っています。
そんな時、思うのです。私は「カルバリの愛をまったく知らない。」これは、エミー・カーマイケルの「カルバリの愛を知っていますか」に書かれている言葉です。様々な状況が書かれ、その対処を通して、いかに自らが十字架から遠ざかっているのか。その愛を理解していないのかが書かれ、胸に突き刺さります。
事実、私たちは罪人でありながら、その頭でありながら、あの十字架の犠牲によって、何とか赦していただいただけに過ぎない存在だということ。その事を忘れる時、それが相手を裁く時です。
主イエスはそのことを、目に丸太が入っている、とユーモアたっぷりに語られました。人々はその姿を想像して、大笑いしたことでしょう。そして、人を裁く時に思い出したはずです。そして今や、その笑いは悔い改めに変わり、思い出すのはカルバリの丘での出来事です。
裁く御方を裁いてしまったこと、その罪の深さを思う時、裁く心から解放され、まことの愛と平安があなたを包むのです。
2025-01-19
1月19日「あなたのために」
マタイ6:25~34
主イエスのもとに集まったのは、日々の生活に困窮している人がほとんどでした。そのような生活の中では、衣食住や経済に頭が占領されてしまうのも無理ありません。きっと、集まった人々も、その生活がより豊かになること、その解決を求めて、主のもとにやってきたのでしょう。実際、主は大勢の人々を癒やし、悪霊を追い出し、問題を解決していました。
そんな人々を前に、主は食べ物と衣服という例をあげて、命と体の重要性を教えられました。そこで、人々に注目するようにおっしゃった対象が、鳥と花でした。私たちは食事や衣服を作り出すことはできますが、それを生み出すことはできません。鳥を料理し、花を飾ることはできますが、鳥を養い、花を創造された方は誰なのか。そして、その方は私たち人間をどのように愛しておられるのか。そこに注目するように、人々を導かれたのです。
神の国と神の義。簡単に言うならば、神の国とは神の御言葉の約束、法則のことです。神の義とは、神の計画のことです。アブラハムは神の約束を信じて旅立ち、年老いて赤子を授かるという神の国と神の義を経験しました。しかし、星の数ほど増えるという子孫を目にすることはありませんでした。聖書は、彼のような信仰者が、目に見えない神の約束を信じて歩んだことを取り上げ、地上では寄留者であることを信じた群れだと言っています。
あなたは何を第一にしているでしょうか。十字架の主はあなたの第一になりたい方です。
2025-01-19
1月12日「今に働く神の力」
イザヤ43:16~20 IIコリント5:16~17
「この1年をどのように過ごそうか!?」と祈っている方、もう新しい幻に向かって歩みだしている方、それぞれの1年が始まり12日。
バビロンに連れていかれたイスラエルの民は、全く希望の失せた奴隷生活にうなだれ、希望を失う中、イザヤを通して主の御声を聞きます。「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。…」神の今が、ここに。
パウロは、さらに確かに断言します。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された人なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と。わたしたちは自らの罪責感にトラウマに囚われ、新しい約束の時を受け入れられません。
しかし、どんな中にも、わたしたちは「祝福の約束」に生きること、「新しい時」が備えられているという信仰が与えられていることを感謝します。
この年頭に、「わたしが生きている場所はどこか?」と問うてみましょう。わたしたちは、「わたしの時は御手にあります」(協、詩編31:16)との真理の中に自らを見出すことが出来ます。
いつも、どんな時も、この年も、主に在って「今や、恵みの時、今日こそ、救いの日」なのです。
2025-01-19
1月5日「御言葉に立って」
ローマ8:37~39
「あなたの魂が焦点を失ったら、十字架の上で注がれたわたしの愛に目を向けなさい。忘れてはいけないのは、『他のどんな被造物も、わたしたちの主イエスキリストの愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。』の御言葉です。これは、あなたの中に感謝の思いを育てる土台を造ります。私の十字架の愛という土台に立てば、どんな状況にあっても、揺り動かされることはありません。」ー サラ・ヤング著『Jesus Calling』
聖書は、悪魔は偽りの父であると言います。悪魔が偽りを言う時、嘘は悪魔の本性から発生されます(ヨハネ福音書8:43~44)。悪魔は、神様の愛から私たちを引き離そうとします。独特の嘘を用いたり、私たち誰もが持つ罪悪感に付け込んだりして私たちを神の前に無価値な存在に思わせるのです。悪魔の囁きに対して私たちは、どのように対抗すればよいのでしょうか?
イエス様でさえ、悪魔の誘惑を受けられたことを思い出しましょう。イエス様は、御言葉によって悪魔に立ち向かいました。悪魔が偽りの矢を放つ時、イエス様がなされたように、聖書の御言葉により頼みしょう。(マタイ4:1~11)「そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来て、イエスに仕えた」とあります。『他のどんな被造物も、わたしたちの主イエスキリストの愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。』
2024-12-29
12月29日「チームに働く神の力」
マタイ2:13~15
主イエスは神の御子として、神と等しい方でありながら、赤子の姿をもってこの地上に来られました。生まれた瞬間から話し始めたり、御言葉を解き明かしたり、立って歩くようなスーパーマンではありません。食べ物をこぼし、泣きじゃくってお腹が空いたのを教えたり、私たちと同様に人の助けが必要な状態で来られたのです。これは何を示しておられるのでしょうか。
もちろん、主はそんなことをせずとも良かったのです。お一人で現れ、お一人で歩まれ、お一人で教会を建て上げれば良かったのに、そうされませんでした。ヨセフとマリアというチームに、弟子たちというチームに、マルタとマリア、ラザロというチームに、そして、今は私たち教会というチームにご自身の偉大なご計画の一端を担わせる形でご栄光を現そうとされています。
天地創造のみわざの中に、人を創造された記事があります。そこで主はご自身のことを「我々」とおっしゃっています。父なる神、子なるキリスト、弁護者としての聖霊。神はもともと三位一体というチームだったのです。そして、人はその神の似姿にデザインされました。
主は人とやりたいのです。それも、チームとして人が関わることを好まれるようです。教会が神の家族としてチーム力が高まってきた今、主の栄光が現されているのは偶然ではありません。これは神の国のれっきとした法則なのです。
2024-12-22
12月22日「まっすぐに信じる」
マルコ1:1~8
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書には、主イエスの生涯が別の角度からそれぞれ捉えられています。マタイはユダヤ教の、あるいは既存の価値観に縛られている人々に向けて。ルカは女性に目線を当てながら、一つひとつの出来事を詳細に伝えようとし、ヨハネは文学的、あるいは哲学的な文章で、主がどのような存在としてこの世に来られたのかを明確にしています。では、マルコによる福音書はどうでしょう。
マルコは主の誕生にまつわる出来事を描いていません。まず、洗礼者ヨハネの存在から伝え始めています。そして、全編にわたって読者に問うのは、「まっすぐ」という信仰の姿勢です。
「まっすぐ」という言葉は「正しい」という意味も含まれています。主の生涯を正しく、まっすぐに信じる。このことができるだろうか。これが、マルコの著者の言わんとするところです。
まっすぐに、正しく信じるために必要なことは何でしょうか。そのことを伝えようと、マルコは洗礼者ヨハネの信仰から、福音書の記述を始めています。洗礼者ヨハネの信仰から、このクリスマスに、私たちが信じる方がどのような方で、私たちの信仰とはどのようなものかを考えてみましょう。
2024-12-15
12月15日「闇の中の光」
イザヤ9:1~6
闇の中に光が輝いた。主イエスの生誕まで何百年も前の預言です。この御言葉も、まさに闇の中を歩む人々に与えられたものでした。
主に仕え、教会に仕えて長い年月が過ぎましたが、今まで一度たりとも「幸せなので教会に来ました。」という方に会ったことがありません。もちろん、私自身も幸せの中で神を、救いを求めたわけではありません。まさに暗黒の真っ只中で、救いを求めて叫んだのです。「教会の方々が言うように、聖書が伝えるように、本当にあなたが救い主なら、俺の人生を何とかしてください!」それが、生まれて初めて心から神に祈った言葉でした。そして、主は約束通り、救いを与えてくださいました。
そのように、この方を求め、救いを願い、その素晴らしい恵みを知って解放された方々によって、今年も本当のクリスマスが祝われます。祝いなさい、と命じられたからではありません。祝いたくて仕方がないから祝うのです。
人々から嫌悪され、迫害もされ、その中で救い主が来ることを信じて伝え続けてきた預言者たちが、どれほど見たかった景色でしょうか。本当に救い主が来たこと、その救いは預言の通りだったこと。しかも、意味不明だった傷つく救い主の姿さえ、十字架によって明らかにされました。
伝えるのをやめろと言われても伝え、賛美するなと言われても賛美し、祝うことを禁じられても祝い続けた人たち。あなたもその一人となるのです。
2024-12-15
12月8日「主の宿る処」
ミカ5:1 ルカ2:1~7
この12月8日は、何の記念日か知っているでしょうか?1941年12月8日(今から83年前)は、日本が米英を相手に戦争を始めた「真珠湾攻撃」の日です。全世界が火薬のにおいのする昨今、わたしたちは聖書を通して、世界と日本、そしてわたしたち自らを省みる時とするように、と招かれていることを心に留めなくてはなりません。
わたしたちは、事柄を一方的に、自分の持っている僅かな知識や情報でもって理解したように考えがちです。そんな中に、聖書はわたしたち自らの持つ限界、垣根を取り除き新しい時へとわたしたちを導きます。わたしたちそれぞれの持つ一方的壁を打ち破るために、主はこの世においでになられました。
預言者の「救い主預言」、そして「神の出来事」は、わたしたちの思いを絶して、「はるかに超えて高く深い」ものでした。神の指は、「いと貧しく、小さな場所を指し示します。
「聖書」はわたしたちの偏見に満ちた思いを、打ち砕きます。「家畜小屋と飼い葉桶」、想像を絶する貧しさと悲惨さ。そここそが、キリスト誕生に選ばれた場所でした。最も貧しい場所、そこにこそ、全世界への神様の出来事が新しく始まりました。いと小さく貧しい、自らを解放する平和のために。
2024-12-01
12月1日「神のライフプラン」
イザヤ55:8~11
キリストを救い主と信じる信仰の素晴らしさは、良いことが起こったらハッピーで、悪いことが起こったら無意味とは決してならないことにあるのではないでしょうか。
主は、私たちの思いをはるかに超えた計画を、一人ひとりの人生に現してくださいます。一見すると、目の前で繰り広げられる出来事は、悪い事のように映るときもあるかもしれません。主イエスもおっしゃいました。「この世にあっては苦難がある。」と。
何よりも、主ご自身が、苦難を嫌と言うほど味わわれたのです。そうする必要もない方でありながら、です。
イザヤの預言を知っていた者たちでさえ、誰も信じられませんでした。神でありながら、人となっておとめに宿り、世話が必要な赤子として過ごし、貧しい村の大工として働き、その人が律法を成就するために来たと宣言し、およそふさわしくは見えない人々を弟子として、数々の奇蹟を実行し、仲間に裏切られ、不当な裁判で屈辱的な十字架で死ぬも、三日目に復活する。これのどこを理性で理解できるでしょう。しかし、この方法でしか、人を救うことができなかった。あなたを変えることはできなかったのです。
2024-11-24
11月24日「人生の豊かさ⑥」
マタイ6:19~21
天に富を積む。天国に入ったときのエピソードとして語られる笑い話の中に多く見られるように、地上で積んだ善行が天で反映される、という理解がほとんどではないでしょうか。しかし、これは因果応報の価値観が天国でも反映されてしまう悪い例だと私は思っています。
もちろん、神は善い行いを喜んでくださる方ですし、悪に対しては義をもって臨まれる方です。しかしながら、神はその愛の深さゆえに、因果応報の価値観に終止符を打った方でもあるのです。
罪を犯した者たちに対して、義をもって罰することもできたはずなのに、その罪を御子イエス・キリストにすべて負わせました。しかも、赦してくださいと泣きながら懇願する相手にではなく、ご自身に見向きもせず、神などいないと嘯く者にまで、その愛を拡大されたその姿こそ、あの十字架の姿です。
あなたが究極的に大切にしているものは何ですか、と尋ねると、ほとんどの人が地上に富を積むことを選びます。家族、友人、ペット、アイドル、金銭、推しグッズなどなど。それらは人生を豊かにしてくれる大事なものであることに異論はありませんし、主もそのことを理解しておられます。しかし、主はおっしゃるのです。それがあなたの心の場所なのだ、と。
あなたの心は、虫が食い、サビつき、奪われるかもしれないところにあるいませんか?今一度、考えてみましょう。
2024-11-17
11月17日「いつまでも期待する」
Iコリント12:31b~13:7
パウロは「すべては愛から始まること」、愛の内に生きることが大切だと語っていきます。パウロは、彼の「愛」の実感をこの手紙で語り始めます。元々キリスト者を迫害する者だった彼を、神様は長い間忍耐をして時を持っておられた。だから彼は愛を語る上で一番最初に「愛は忍耐強い、愛は情け深い」という言葉を語りました。同じように神様に背くことしか知らずに生きてきた私たちを、神様は受け入れてくださりました。長い時間かけて、立ち帰る最も良い時まで忍耐して待っていました。
救われたということは、本当に、愛されたということです。愛の道は、パウロの言う最も優れた道です。かつて何もしらなかったわたしたちは、神様に実際に愛されて初めて愛を知りました。
この愛の道はただ好きな人と歩む道ではありません。なんなんだこの人は、と思う人と歩むことのほうが、実際は多い。神様の御業を待ち望みつつ「すべてを期待し信じること」が、隣人を愛することの秘訣です。共に歩む隣人に対して、神様はこれから先一体何を見せてくださるのかと期待すること。そのような新しい忍耐によって、信じ、望み、隣人と一歩一歩共に歩むのが、「愛の道」です。この道を歩むには、イエス様と共に、そして隣人と共に歩む必要があります。神様を信じ、喜びの忍耐を持って、愛の道を歩む。それを今、愛をもって神様はわたしたちにいつまでも期待しておられます。
2024-11-10
11月10日「人生の土台ー神の然り」
創世記1:31 Ⅰテモテ4:1~5
あなたは今、「どんな言葉を生きていますか?」と問われたら何と答えますか?それは、「あなたに見えているものは?あなたの感じていることは?」への問いでもあります。
「どこにいるのか?」(創世3:9)は、神様が人間にされた最初の問いです。それ以来、神様はどんな時、どの時代においても、神様に立てられた人間(アブラハム、モーセ、預言者…)を通して問い続けてきました。時至り、イエス様を通して、語り続けておられます。「あなたはどこにいるのか?と。
聖書はその初めにおいて、「御自分にかたどって人を創造された。男と女に創造された」と宣言しています。ここに、わたしたち人間の真実の姿が明らかにされています。全ての創造を終えた神様は、「それは極めて良かった」と喜ばれます。
イエス様は、「極めて良かった」人間と出会う歩みでした。主に続くパウロの宣教は、主の足跡を踏みしめるものでした。「神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何ひとつとして捨てるものはない」との宣言の確信がここにあります。
わたしたちは、キリストという土台(罪の救いと永遠の命)の上に建てられています。感謝します!
2024-11-03
11月3日「理解を超えて」
使徒17:29~34
古代アテネは学問の街として栄えてきました。昼間から広場には学徒が集まり、様々な話題について議論を交わすような土地です。
使徒パウロが福音を携えてこの街を訪れたとき、人々は新しい思想や学問、話題が来たと大いに喜び、彼を歓迎したのです。
ところが、パウロが主イエスの歩みとその意味、そして、罪の赦しの十字架を語りだすと、人々の反応は薄れていきます。やがて、主が蘇られたことにまで話が及ぶと、人々は期待していたものとは違う福音の内容に、きびすをかえして去っていきました。
いわば、最高レベルの知識の集積所であるアテネの人々の問題点は、一体どこだったのでしょうか。彼らは何を欲しがっていたのでしょうか。そこに、人が求めるものと、神が与えたいと願うものの間にあるギャップが存在しています。
あなたが今、神に求めたいものとして真っ先に頭に思い浮かぶものは何でしょうか。そして、神があなたに与えたいものとは何でしょうか。聖書はそのことに注目させます。
神があなたに与えたいもの。それは永遠の命です。これは人間が努力しても、善行を積んでも、決して得ることができないものです。そのために、神は壮大なご計画を持って働かれた。それが聖書のストーリーです。