宣教

2021-07-18
7月18日「何を望んでいますか?」

ルカ7:1〜10
 今日の聖書に登場するローマの百人隊長は、遣わされた場所で民に奉仕し、人々から好意を持たれていたようです。ユダヤ人のために礼拝堂を建てた、という証言からも、彼が人々に仕えるだけでなく、彼らの信じる聖書の神をも大切にしていたことが分かります。また、愛するユダヤ人たちが切に求めていた救い主が来たという話にも耳を傾けていたようです。なぜなら、天と地の一切の権能を授かっている、とおっしゃる主イエスは神の全権大使であると理解していたからです。
 私たちは神に祈り求める時、何を望むでしょうか。問題の解決でしょうか、病の癒やしでしょうか、友と仲直りするための勇気でしょうか。もちろん、神はこのような願いを聞いてくださいます。しかし、ご自身に近づくそのことを喜ぶことはするにしても、賞賛することはないのではないでしょうか。では、この百人隊長は主に何を賞賛されたのでしょうか。
 彼が求めたのは、召使いの癒やしでした。しかし、癒やしてくださいと願うのではなく、御言葉さえあれば、と神の言葉を求めただけでした。
 神は言葉によってこの世界を始められました。さあ、私たちはどうでしょう。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2021-07-11
7月11日「新しい命の誕生」

     イザヤ43:1〜4  ヨハネ8:1〜12
 聖書はどこもが、素晴らしい示唆に富んだ、神の世界-キリストとの出会い-に満ちています。その中でも今日の記事は、9章の「生まれつきの盲人を癒す」物語と共に、福音の豊かさと薫りにおいて、白眉といえるものではないかと考えます。
 主イエスの前に立つと、この世の価値観とは何であり、福音とは何でないかが見えてきます。それと同じように、ファリサイ人と律法学者の、この世と人々に対する出会い方と、主イエスの彼らと異なる眼差しとの決定的違いが浮き彫りにされます。
 神から与えられた律法が、人間的常識の普遍性から独立することなく立ち現れます。ファリサイ人と律法学者の神と人々とに対する出会い方は、この世の価値観と並列するように見えます。
一人の姦淫の現場で捕らえられた女性を、自らの正義の秤によって、抹殺に値すると断じ、イエスを「罠」にかけようとします。そんな中で、この女性は主イエスにより、「新しい命に誕生」します。
 「わたしの目にあなたは価高く貴く、わたしはあなたを愛し…」(イザヤ43:4)の世界がここに現れます。新しい命の誕生です。主は今もわたしたちの前に立たれます。この女性が新しい命に生きたたように、「生きよ!」と我らに語られる主が共に。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2021-07-05
7月4日「神にできない唯一のこと」

エフェソ3:14−21
 使徒パウロはエフェソの教会のために熱心に祈りました。そのあまりの情熱は、神を前にして膝をつくほどだったのです。
 祈りはまず、神の御名の権威がすべての人に与えられている、との大胆な宣言から始まるのです。そして、人に内在する「内なる人」を強めていただけるよう祈ります。また、キリストの愛が、その広さ、長さ、高さ、深さにおいて、どのようなものかを理解し、その豊かさに触れて満たされるようにと続きます。
 もし、パウロが私たちのために祈っていたと考えたら、いかがでしょうか。私たちの「内なる人」はどんな状態にあるでしょうか。また、私たちはキリストの愛がどれほどのものかを理解しているでしょうか。そして、私たちは満たされているでしょうか。
 仮に、そのすべてにおいて否定的な回答があるとするならば、なぜパウロがそのことを熱心に祈ったのかがわかるでしょう。そうです。ここで彼が祈っている内容は、私たちの日々の歩みにおいて欠かすことのできないものだからです。
 私たちの想像をはるかに超える神の素晴らしいみわざが今ここにあると。信じることができるでしょうか。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2021-06-27
6月27日「向こう岸の景色」

マルコ4:35〜41
 主イエスは御言葉を聞くだけの人、受け入れる人の違いを教えられた後、「向こう岸へ渡ろう。」と弟子たちを導いて嵐吹く湖へと舟を出発させました。
 果たして向こう岸には何があったでしょうか。そこには悪霊からの解放があり、病の癒やしや死者の蘇り、そして必要の満たしがありました。そこは天国のようでした。次に舟に乗る時も、やはり試練がありました。しかし、前回の向こう岸と今回の向こう岸は全く違う展開を見せました。そこにあったのは十字架でした。
 私たちの人生も、試練という名の嵐は一度きりではありません。さらに、予想だにしない出来事が起こってくるときもあるのです。十字架を前にして、何もかも終わりだ、と弟子たちが思ったような問題に遭遇することもあるでしょう。
 主は試練を経由してたどり着く「向こう岸」で何を見せたかったのでしょうか。それは、復活の希望です。何があっても大丈夫という平安です。主が数々の奇蹟を見せたのは、全てを支配する方が共にいて、必要を満たし、問題を解決してくださることを教えるためでした。そのことを通して、弟子たちが思い煩うことのないためです。主は弟子たちに、そしてあなたに言います。「まだ悟らないのか」

Posted in 宣教 | Comments Closed

2021-06-27
6月20日「あきらめない神さま」

マタイ18:12〜14
 主イエスは人間のことを羊にたとえて話されました。そして、ご自身は「良い羊飼い」だとおっしゃるのです。
 羊の習性を知っていれば、牧者がどのように振る舞うかがわかるでしょう。群れを好み、集団で無自覚に追従してしまう癖のある羊たちを導くために、牧者が先導することは少なく、むしろ後方から羊たちを視界に入れて進むのです。もし、群から離れた羊がいたならば、杖などで正しい位置に戻します。それでも、遠近感を捉えるのが苦手な羊にとって、群から離れ、迷子にならないことは至難のわざなのです。
 群れを好む羊がたった1匹になると、とてつもないストレスがかかり、気が狂ったようになります。羊一匹を捕まえるよりも、100匹を捕まえるほうが楽だ、と言われるほどです。罪という名の狂った世界観で歩む羊、つまり人間が、神の群れに立ち帰るのが容易ではないのと同様です。
 しかし、主は憐れみ深く、自らの時間と命を削って、その1匹を探しておられます。なぜなら、他の99匹では代わることのできない価値があるからです。
 あなたは愛されています。何をしたか、どんな人か、は関係ありません。あなたがあなただからです。

※ 動画はありません。ご了承ください。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2021-06-13
6月13日「まことの食べ物」

申命記8:3   ヨハネ6:41〜51
 「ババア食ったジジイ、縁の下の骨を見ろ!」とは、『カチカチ山』最後にある、タヌキのセリフです。タヌキ汁と思い、「旨い、うまい」と、長年連れ添ったおばあさんを食べる!そんなおじいさんの姿と自分が重なります。
 生まれてから75年!洗礼を受けて55年!結婚して48年!牧師になって47年!…。両親の、姉妹の、友の、妻の、子供の…。数限りない人の肉を貪り食って、そして誰よりも、キリストの肉と血を貪り食って生きて来た自分を想い巡ら唖然としています。
 人は、生きとし生けるものはすべて、他の命を食することなしに生きていくことは出来ません。そしてキリスト者とは、キリストの血と肉に、すなわち「命」を食して生きていることを知る者のことです。
 「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」とイエス様ははっきりと宣言されます。ここに真実の神の愛が明らかにされます。
 マザーは「生きている愛は傷つきます。イエス様はご自身の愛を証するために わたしたちの身代わりとなって 十字架の上で死なれました。~」と言っています。主は生きていて、今もわたしたちに手を指し伸べ、今も、ご自身を与え続けておられます。主こそ、御言葉こそは「まことの食物」なのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2021-06-06
6月6日「方向転換への招き」

ルカ5:27〜32
 主イエスが好きな言葉があります。それは「Follow me」です。私たちの主は招く神です。いつの時代も、どんな人にも、招きの声をかけておられます。
 神の声に従って、招きを受け入れた人の人生は大きく変えられていきました。聖書の登場人物のすべてが、神の招きを受けました。しかし、その招きを受け入れるか受け入れないかで、その後の展開は大きく異なったものとなったのです。
 主イエスと出会うまで、レビは徴税人でした。それは、同胞から金銭を巻き上げるような生活であり、周囲から蔑まれる存在でした。そんな彼にも声がかかるのです。「わたしに従いなさい。」
 彼のとった態度は驚くべきものでした。なんと、「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。」と聖書に記されているのです。
 人生の主を神に置き換える作業は平坦ではありません。ほとんどの人は、自分の人生の主は自分なのです。ですから、その王座を神に明け渡すことは容易ではなく、全てを捨てるような覚悟が必要だと聖書は語るのです。しかし、もしあなたがそれでも主をお迎えしようと決めたなら、罪人として迎える結果とは別の景色を見ることになるでしょう。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2021-05-30
5月30日「戻るべき場所」

ルカ10:17〜20
 主イエスは弟子たちを厳しい環境へと遣わしました。それはまるで「狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」というのです。しかし、主は彼らを放り出したのではありません。そのような環境にも打ち勝てるように、神からの素晴らしい力と権威を与えて送り出したのです。
 帰ってきた弟子たちは、その力と権威によって地上に天国がもたらされる景色を見てきたのだと、大喜びで主に報告します。それを聞いて主は聖霊に満たされて大変お喜びになりました。それは、特別な人だけが特別なことができる、という世の価値観を打ち破る神の国の到来を意味していたからです。
 私たちも弟子たちと同じ用に、時に厳しい環境へと遣わされる時があります。もちろん、私たちも主から力と権威を委ねられた存在ですが、その事を忘れる時があります。私たちは誰が何と言おうとも、神の国の大使なのです。
 しかし、大使であってもできないことは多いものです。そんな時は、落ち込むのではなく、自分が神の国の大使であることを思い出すことが必要になるでしょう。主は、私たちが何を為すかではなく、何者なのかに注目するようにと教えるのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2021-05-22
5月23日「聖霊による一致」

使徒2:1〜4
 教会はいつも聖霊とともに歩んできました。かつて、聖霊に満たされた人々の言動は、人々を驚かせるものであり、かつての過ちが神によって回復されたことを宣言するものでした。
 聖霊が臨む時、そこには「しるし」が伴います。はじめての聖霊降臨の日、そこには耳や目からのインフォメーションがありました。私たちは聖霊が降る音を聞いたことが、あるいは目で見たことがあるでしょうか。そこには大いなる驚きがあります。
 聖霊に満たされた人々が導かれのは、何だったでしょうか。それは、言葉を語るということでした。それも、他の国々の言葉で語ったというのです。しかし、方法や形式は違えど、内容は一致していました。それは、主イエス・キリストの十字架と復活という、神の偉大なみわざだったのです。
 かつて、自己中心的な欲望を満たすために建て上げられた塔は崩れ去り、人々は異なる言語を与えられ、散らされました。原初の人間から受け継がれた罪ゆえに背負わなければならなかった重荷は重く、自力での解決は不可能でした。
 今、その重荷は主の犠牲によって取り去られ、人をつくりかえる霊が注がれたのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2021-05-17
5月16日「主の祈り 後編」

マタイ6:9〜14
 物質的に豊かである時、誰が日毎の糧を祈るでしょうか。「私たちに必要な糧を、『今日』与えてください。」と祈る言葉には、私たちの視点を、いつでも「今日」に向けるものです。今日、この瞬間、必要な糧が与えられているとしたら、感謝しかありません。また、備えられていないとすれば、それが本当に必要なことかどうかを考えるきっかけになるものでしょう。糧は黙っていたら与えられるものではなく、すべて神からくるものなのです。
 また、他者との関係性において、その人を「赦す」とはどのようなことなのでしょうか。主イエス・キリストは、特にそのことに注目しておられるようです。主は「もし、人の過ちを赦すなら…」と、まず私たち側の姿勢を求めておられます。問題が深ければ深いほど、怒りが強ければ強いほど、赦せない人がいるものですが、神はそのことから私たちを解放しようとしておられます。しかし、神があなたを解放しようと試みても、あなたがそれを受け入れられないのであれば、決して解放されません。主はそのことをおっしゃっているのです。
 主の祈りの後半は、私たちを日々、解放へと導いてくださるものなのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2021-05-10
5月9日「奇跡を生きる食物」

創世記15:6  ヨハネ6:22〜41
 「わたしたちの今」、それは、わたしたちが自分で、自分に対して「信じている今」であると言ったらどのように思われるでしょうか?わたしが「自分の今」をどのように思い、感じているかが、まぎれもない自分自身の人生なのです。いろんな方と出会う度、多くのものが揃っていても、「不幸」と感じている人と、持たなくても「幸い」と感じている人のいることに改めて気付く日々の中です。
 マザー・テレサは自身の人生をどのように感じていたのでしょうか?わたしには間違いなく、「幸せの王道」を歩んでいた方のように思います。なぜならば、マザーと出会った人は今、までと正反対の方向、幸せに向かって歩みだしたと思えるのからです。
 多くの人は、永遠の命を求めているかのように「朽ちる食物」のために人生を用います。あなたは何を「信じ、何に向かって歩んでいますか?」
 イエス様が与えた、「5つのパンと二匹の魚」も永遠の命を与えるものとはなりませんでした。「永遠の命に至るまことの食物」とは、「神の業」を行うことです。「神の業」とは、「神がお遣わしになった者を信じる」こと以外のことではありません。あなたが信じているものがあなたの人生となるのです。今一度、「あなたは誰を、何を信じていますか?」

Posted in 宣教 | Comments Closed

2021-05-02
5月2日「主の祈り 前編」

マタイ6:9〜13
 主の祈りは、知っている方々にとっては暗記してしまったお題目のように感じるかもしれませんが、実は、主イエスが与えてくださった信仰生活の深みへの招待状なのです。
 主の祈りは、「御名があがめられますように。」という言葉で始まります。御名をあがめるのは誰でしょうか。そうです。人類です。では、全人類が主の御名をあがめることになれば、どのようなことが考えられるでしょうか。すべての民が主をあがめる。それは神の国の実現です。「悲しみも涙もない」と黙示録にあるように、神の国が完成することを願うことから祈りが始まるのです。
 次に、「御国がきますように。」あなたは今すぐに御国がきてほしいと本気で願っているでしょうか。もし、主が今来られたなら、あなたが未来に予定していた計画は全てキャンセルになります。あんなこと、こんなこと、楽しいことも、期待していたことも、全てが消え去ります。そう聞くと、まだ御国が来ませんように、と祈りたくなりませんか?
 大丈夫です。あなたが考える以上に素晴らしいご計画をもった方が、あんなこと、こんなことを計画されているのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2021-04-25
4月25日「信仰のしるし」

マルコ16:14〜18
 主イエスが復活され、直接目にした人々の言葉は、11人の弟子たちにとって信じがたいものでした。そんな彼らが集まっていると、復活の主がおいでになり、彼らの不信仰を咎められました。そして、ご自身を信じる人々にはどんなしるしが伴うかを説明されたのです。
 初めに不信仰を咎め、その反対に信仰の世界を語る主イエスの御言葉は、この箇所が信仰をテーマとして取り扱っていることを教えてくれます。
 「彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
 悪霊を追い出して新しい言葉を語ること、手で蛇をつかむこと、毒を飲んでも害を受けないこと、病人を癒すこと、これらが信仰に伴うしるしとして語られました。
 悪霊の目的は神の愛とそのご計画から引き離すことです。そのためには新しい言葉、すなわち聖書の言葉に対する信仰が必要です。他のしるしについても同様に、信仰がキーワードなのです。
 あなたは、そのしるしの道を歩んでおられますか?

Posted in 宣教 | Comments Closed

2021-04-18
4月18日「神が与えたいもの」

ルカ11:1〜13
 弟子たちは、主イエスのみ前に祈りを教えて下さいと願い出ました。与えられた祈りの文言と、その後に続くたとえ話から、主が、弟子たち、そして私たちに知ってほしかったこととは一体何でしょうか。 
 もちろん、それは祈りについての考え方に光を当てるものです。しかし、たとえ話に登場する「執拗に頼めば話を聞いてくれる友人」のことが神だとするならば、神は執拗に頼まなければ言うことを聞いてくれない方ということになるのでしょうか。
 子どもたちは与えられるまで求めていく傾向にあります。何度も何度も同じことを願い、諦めて与えることもあるでしょう。実際、神がそのような人々に対して願い求めるものをお与えになった事例も聖書に記されています。しかし、執拗に願った当人たちにとって与えられたものが有益だったかどうかは疑問が残ります。
 多くの場合、彼らが求めたのは地上における一時的な解決や豊かさでした。しかし、神が与えたいものは聖霊です。嵐の中でさえも眠ることができるような平安と、神は必ず与えてくださるという信仰。神が与えたかったのは、その実りをもたらす真理の御霊なのですから。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2021-04-11
4月11日「偉大なる日毎の糧」

詩編121:7-8   ヨハネ4:31〜34
 「♪山辺にむかいてわれ 目を上ぐ 助けはいずかたより 来るか。天地のみ神より 助けぞ我に来たる。(賛21‐155)」のみ言葉は、わたしたちの由来と、宿るべき場所が何処か?を明らかにします。
 主は「あなたの出で立つのも、帰るのも見守る」とあります。信仰は、住み慣れたこのところから出ることと、神のもとに帰ることであると知ります。
 確かに、信仰者とは出る人です。アブラハム、モーセのみならず、ペトロもパウロも、今いる場所から、神の指さす処へと出で立ちました。「信仰」とは従うことを含む最もダイナミックな動詞です。
 昼食を買いに行った弟子たちに主は、「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と言われました。「主の祈り」の、「日毎の糧」の意味が鮮やかに浮かんできます。「御名を、御国が、御心が…」の祈りこそがわたしたちの祈り「日毎の糧」なのです。
 昼に人の目を避けて水を汲みに来たサマリヤの女は、イエス様と出会ったその時から全く変えられ、恐れる人々への「キリストの証人」となりました。
 「主の祈り」こそは、わたしたちとすべての人々に奇跡をもたらす、「永遠の命に至る水がわき出」る、奇跡をもたらす祝福の井戸なのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2021-04-04
4月4日「神は生きておられる」

ルカ24:5〜12
 主イエスは、生前にたくさんの御言葉を弟子たちに残しました。生活にまつわること、信仰について、永遠の命と天国についてです。しかし、ご自身の使命についてもしっかりと語っておられたのです。それは、十字架の後に復活する、という約束でした。
 凄惨な十字架刑のむごたらしさを目にした人々は、死んでしまった主を葬りました。こう思ったことでしょう。「こんな姿で、どうやって蘇るというのだろう。」と。
 それでも、一縷の望みを抱いて墓の前に来ると、そこに主の遺体はありませんでした。驚く婦人たちに天使が宣言します。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」 それは、かねてから主ご自身が語っておられたことでした。
 生きておられるいのちの方。主にとって、死は不自然なものです。しかし、私たちにとって死は自然のことであり、すべての人に等しく訪れるもの。問題課題も同様です。
 いのちのこと、そして問題課題の解決を死者の中に探していないでしょうか。死は罪から生じる不自然なもの。そこに復活の主はいないのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2021-03-28
3月28日「信仰の実り」

 ルカ18:35〜43
 使徒の働きに見られるように、福音はしばしば敬遠され、揶揄され、迫害されました。それは、福音そのものである主イエスの十字架と復活を見れば明らかです。なぜなら、神が人となり、身代わりとなって十字架で死に、復活されたという荒唐無稽な話を弟子たちは携えていったからです。多くの人はこれを受け入れませんでした。しかし、そんな中にあっても、福音を救いと感じ、生ける神、主に出会った方々がいました。
 エリコの町に、生まれつき目の見えない方がいました。彼のところにも、イエス・キリストの話は届いていました。その方は、目の見えない人の目を開き、手足を癒やし、霊的な解放をもたらし、死者まで蘇らせる。そんなことがあるだろうか。そう思ったに違いありません。
 やがてその日が来ました。主がそばを通りかかったのです。彼は叫びました。「ダビデの子よ、憐れんでください!」人々は彼をたしなめましたが、やめませんでした。なぜでしょうか。
 聖書は疑い迷いを否定しません。詩篇はそのような歌で満ちています。しかし、疑心暗鬼の中で彼らが叫んだ相手は、主であり、その主こそ、救いの神だったのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2021-03-21
3月21日「神の募集要項」

マタイ11:28〜30
  主イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」とおっしゃいます。疲れた者とは、誰のことでしょうか。病んでいる方は別としても、私たちはゆっくり休めば身体は回復し、疲労が取れるように神がお造りになりました。しかし、休んでも疲れが取れないときがあります。それは、身体的な疲れというよりも、精神的な疲れであったり、魂の疲れであったりするのではないでしょうか。
 また、重荷を負う者とは誰のことでしょうか。では、果たして、この世界に重荷を負っていない人はいるでしょうか。そんな人はいないのです。そして、主ご自身も、この世界に肉体をもっておいでになり、重荷を負われたことが聖書に記されています。それは、十字架です。
 心と魂の疲れ、そして重荷を負ったままで、主は私たちを招いておられます。なぜなら、私たちには休みが必要であり、ご自身がその平安を与えることができる存在であるということを知っておられるからです。なぜなら、私たちをお造りになったのは主であり、どのようにすれば私たちが安らぎを得られるかをご存知だからです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2021-03-13
3月14日「コンセントはどこに?」

イザヤ55:11  ヨハネ3:16〜21
 クリスチャンならば誰でも知っている聖書の個所と言えば、「ヨハネ3の16」と答えることでしょう。ルターは「これは、小さな聖書である」と言ったのはあまりにも有名です。
 わたしたちは今、「誰と何処と繋がっているか?」といつも問われています。イエス様は「わたしとつながっていなさい」(ヨハネ15:6)と言われました。そして、教会とクリスチャンはそのように歩んできました。勿論、そうでないことは沢山ありましたが。
 どんなに立派なパソコンも電気器具もコンセントが外れていればその機能を生かすことは出来ません。しかし、創造の初めから人は、「蛇-サタン」に誘惑され、サタンにコンセントを射し込んでしまいました。この大切な真実が、義人ニコデモとの対話の中に伺えるのは注目に値します。この時ニコデモは、この世の延長線上に「神の国」を見ていました。
 しかし救いはアダムの系譜からは生まれることはありません。一方的な神様の恵みによるのです。神様のなされた救いは、人間のありとあらゆる思考、想像の全く及ばないものでした。
 人の罪の深さは、御子をお与えになるという神の
愛により明らかにされました。あなたは人生のコンセントを、今、どこに差し込んでいますか?

Posted in 宣教 | Comments Closed

2021-03-10
3月7日「上りゆく生涯」

雅歌8:5〜7
  雅歌は愛する人との恋愛関係のような言葉で満ちています。これを実際にあった人々の理想的な恋愛関係と読み解くこともできますが、これらの言葉の裏には、人間に対する神の愛が描かれ、そのことを伝えようとしていると言われています。
 また、雅歌はソロモンによる知恵文学ではないかという議論もあります。だとすれば、なおのこと、神という言葉が一切出ず、一見恋愛物語に見える雅歌の中に、神の真理が隠されているはずです。
 「荒野から上ってくる」この言葉の意味するものは何でしょうか。荒野とは、死を連想させる言葉であり、人間の努力の及ばない、まさしく何もない場所です。そこから上ってくる人の姿。その人は、どのように荒野から上ってくるのでしょうか。それは「恋人の腕に寄りかかって」
 新改訳聖書では、「恋人」ではなく「愛する人」と訳されていますが、寄りかかることのできる人とはどんな相手でしょうか。もちろん、寄りかかるために必要なことがあります。それは、そばにいること、いつも一緒にいることです。
 私たちの救い主の名は、インマヌエル。「神、我らと共にいる」です。その方は言いました。「世の終わりまであなた方と共にいる。」

Posted in 宣教 | Comments Closed