宣教

2022-05-22
5月22日「弱さが強さ」

士師記3:12~30
 かつてイスラエルは罪を犯し、モアブの王エグロンをはじめとする同盟軍に破れ、18年間の支配を受けることとなりました。圧政の中、人々は再び神の助けを真剣に求める民へと変えられていったのです。
 助けに応えて神が与えた救助者は、ベニヤミン族のエフドでした。彼は左利きでした。
 ベニヤミンというのは「右手の子」という意味で、古代イスラエルでは神の右の座、右の手、といったように、力や強さを象徴とするのは右側でした。しかし、神が選ばれた救助者は「右手の子」ではなく、左利きのエフドだったのです。当時の社会的状況を鑑みるに、エフドは生きづらさを覚えていたのではないでしょうか。右手が大事とされる文化の中で左利きとして生きることは、日常的な差別や自らの出自への呪いとの共存だったのではないでしょうか。彼にとって、左利きは特別な長所ではなく、単なる弱さであり、短所だったに違いありません。しかし、主はその弱さを通して栄光を現されました。勝利は右側だけに与えられた特権ではないのです。
 神はあなたを最高傑作として創造されました。でも、短所がある、そう思っていませんか。それは、その弱さに神が働かれる余地がある証拠なのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2022-05-15
5月15日「神の姿」

マタイ5:43〜48
 聖書は愛についてたくさんの区別をしています。「神は愛」であり、その愛は無条件だと聖書は言います。しかし、聖書を読んでいくと、「〜するならば」という条件付きの約束も多く見られます。これは無条件の愛と矛盾するのではないか。そんな疑問があるのではないでしょうか?
 家庭の様子を想像してみてください。ありのままを受け入れてくれる無条件の愛がある家庭は幸せです。しかし、条件の何もない状態で、果たして秩序が保たれるでしょうか?子どもが好き勝手なことをしていても、横で微笑んでいるだけであれば、それは親としての役割を果たしていないのではないでしょうか?
 神は母性と同時に父性をも併せ持っておられます。無条件の愛という母親の愛と同時に、条件つきの父親の愛をも完全に満たしておられる神は、無条件にいのちを与え、生かしていて下さいますが、さらに、悔い改めてご自分に立ち返ることを求めておられます。
 神の要求に従っていくことは、愛されていることを喜ぶ、受動的な世界から、御言葉に従う能動的な世界へと舵を切る事になります。そこは、約束の地。神があなたに見せたいと願っている場所なのです。

※音量が小さいのでお聞きづらい点をご了承ください。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2022-05-08
5月8日「教会が教会に、私が私になる祈り」

詩編136:1~3  マタイ6:9~13
 牧師として歩む中で、本当に大事なことは何なのかを繰り返し考え続けています。イエス様は、「わたしが天から降って来たのは、自分の意思を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」(ヨハネ6:37)と言われました。ならば、わたしたちもまた、「わたしが地に在るのは、わたしを遣わされた主の御心を行うためです」ということができるはずです。この、「御心」を行うための源が、「主の祈り」と言うことえい出来ます。
 「教会はキリストの体であり、一人一人はその部分です」(1コリ12:27)とあるとおりです。イエス様の教えてくださった祈りは、わたしたちの道標であるばかりではなく、そのように生きることへの招きです。この祈りは、「わたしたちの祈り」であるばかりでなく、「わたしたち」の祈りである ことをはっきりと明らかにしています。
 「天にいますわたしたちの父よ、御名が、御国が、御心が」、「われらの日毎の糧を…。われらに罪を…われらの罪をも赦し給え…」の祈りを、今一度心に刻むことが必要です。教会はこの祈りを2000年間祈り続けてきました。今こそ、主の祈りに生きるように招かれている私たちです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2022-04-30
5月1日「御国がくる」

マタイ6:5~10
 主の祈りは、当時のユダヤ社会においても、そして現代においても特殊なものであると言うことができるでしょう。なぜなら、多くの人が考える、または自然に出てくる祈りとは、自分を中心にした祈りだからです。しかし、主の祈りは、そのような私たちの心の状態に逆らうかのような言葉で始まります。御名があがめられ、御国が来ますように、と。
 かつて、ユダヤの人々は手を上げて、天を仰ぐように祈りました。今、私たちは手を組み、かがんで祈ります。実は、目を閉じて祈るようになったのも中世以降なのです。これは、どちらが良いということではなく、それぞれに祈りの姿勢による特徴があります。
 手を上げ、天を仰ぐ祈りは外向きで、祈りとはすなわち対話であり、独り言ではないことを物語っています。また、現代的な祈りは内省的で、静まって神の声を聞くことを示しています。そして、神の声とは、すべて神の国に関することです。
 御国が来ることを本気で望んでいるでしょうか。もし、今、ここに御国が来たらどうなるでしょう。それが主イエスの歩みに描かれた出来事です。預言がすべて成就し、人々は生き生きとし、世的な価値観は打ち砕かれます。さあ、準備はいいですか?

Posted in 宣教 | Comments Closed

2022-04-24
4月24日「私が私になっていく」

ヨハネ3:1~3
 ユダヤ教の教師であり、議会のメンバーであったニコデモは、仲間が毛嫌いする主イエスのことが気になって仕方がありませんでした。「会ってみたい」彼の生まれ変わりはそこからスタートしました。
 生まれ変わる。つまり、メタモルフォーゼといえるような変化が私たちの人生に与えられる。異世界転生もの、というジャンルが世間に拡がる今に始まることではありませんが、私たちは別の世界で別の人格に生まれ変わるような物語に興味をそそられます。それはなぜでしょうか。
 ニコデモは主に「新たに生まれる」というテーマで講義を受けました。彼にはよく分かりませんでしたが、主の御言葉は彼を捉えていました。彼は御言葉の力を受けながら、徐々に生まれ変わりの過程を歩んでいきます。仲間の議員たちに意見し、十字架の主の遺体を引き取るまでに変えられていきます。夜遅く人目を気にして主に会いに来た彼が、恐れを克服しているように見えます。彼は生まれ変わったのです。
 主が与える生まれ変わりは、別人格になるものではありません。むしろ、ますます自分になっていく変化だといえます。あなたがまだ気づいていないあなたを唯一ご存知なのは主だけなのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2022-04-17
4月17日「生きている者の神」

マタイ22:23~33
 サドカイ派の人々は、死者の復活を否定する人々でした。その一派が主イエスに問いを投げかけます。
 彼らが問うのは、一族の血を絶やさないために与えられた律法の正当性と、永遠の命の世界における婚姻関係についてでした。彼らは律法の専門家であり、権力を握る人々でもありました。彼らが固執していることを見抜いた主は、聖書の専門家である彼らに言いました。「聖書を知らないから思い違いをしている。」と。では、彼らが思い違いをしていたこととは一体何だったのでしょうか。
 あなたは聖書のどの部分を信じることができ、どの部分は信じることができないですか。嵐を鎮めるくらいは信じられるけど、水の上を歩くのは無理でしょ、という読み方でしょうか。サドカイ派の人々が陥っていたのは、この読み方でした。彼らは専門家故に陥りやすい、自己中心的な解釈に走っていたのです。
 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」という主の言葉は衝撃的なものでした。彼らが日常的に唱えている言葉から、神が将来的に信仰者に与えようとしていることを浮き上がらせたからです。
 復活。それは、人知を超えた、まったく新しく、素晴らしいことが起こることなのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2022-04-10
4月10日「十字架の証人」

詩編23:4   ルカ23:32~43
 わたしたちがイエス・キリストと出会うとき、そこに思い煩いからの解放が与えられます。有名な詩編23篇「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」ことを信じることが出来ます。「同行二人」という言葉があります。そうです!わたしたちの道行きは、インマヌエルの主と共なる歩みです。特別の時においてそうなのではなく、いつ、どんな時も「御手の中」(詩31:15)なのです。
 ゴルゴタの丘には3本の十字架が立ちました。中央にはキリストが、その両側には二人の犯罪人が付けられました。この2人のために、また、十字架を仰ぎ罵る者達の為にキリストは死なれました。敬虔な者達のためにではなく、神を畏れぬ者達のために。
 何よりも先ずこの二人のために、主は死に渡されました。最も相応しくない彼らのために。主は最後の晩餐に於いて明言された救済を実現されたのです。「わたしたちはキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになる」(ローマ6;8)とパウロは宣言します。とすると、この強盗たちこそ!
 救われない一人を特定するのではなく、「最初に」キリストの救い、贖いを受けた証人がここにいるのです。この二人の犯罪者に続くのがわたしたちです。

※ ビデオの録画にエラーがあり、動画の公開ができませんでした。楽しみにしてくださっている皆様に大変ご迷惑をおかけし、申し訳ありません。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2022-04-05
4月3日「天国に行く日」

ルカ23:32~43
 主イエスはその日、二人の犯罪人に挟まれて十字架の上にいました。これは、罪人と同列、という意味が込められていたのです。まさに、主は神でありながら、罪人の気持ちにさえ寄り添うお方であることが、人々の辱めを利用してなされた瞬間でした。
 当初は二人の犯罪人は主を侮辱していましたが、悔い改めに導かれた一人の犯罪人の姿が私たちに語りかけます。かつて、あなたは神、という言葉を聞くと嫌悪感さえ覚えたかもしれません。神に対する不満や嘲りを浴びせかけたかもしれません。むしろ、神を信じる人々に対する嘲りはそれ以上だったかもしれませんが。それでも、神を信じることをやめず、十字架の傷を受ける中で人々に仕える姿は、犯罪人の氷のような心を溶かすには十分だったのでしょう。この壮絶な”いじめ”の現場の中で、唯一、平和に生きようとされている方の姿は、その方の信じるものに興味を持たせるに十分だったのでしょう。犯罪人の一人は他の誰でもない、この傷ついた若い青年に自分自身を委ねる決意をするに至りました。それは、何の確証もない賭けのようなものだったかもしれません。
 彼の賭け、それは小さな信仰でしたが、彼の姿が私たちの信仰への歩みを確認するものとして、永遠に語り継がれる天国へのストーリーとなったのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2022-03-27
3月27日「王家の者として」

Iペトロ1:20~25
 福音は、英語でグッドニュースと訳されます。何が良い知らせなのでしょうか。
 あなたはクリスチャンではない方々から「教会では何をしなければならないのですか?」という質問をされたことがありますか。ほとんどの方は、キリスト教という宗教を考えています。では、あなたは「神は何をしてくださったんですか?」という質問を受けたことがありますか。それは、宗教ではなく、福音に関する質問です。なぜなら、私たちが何かをするのが福音ではなく、神が私たちのためにしてくださった、というのが福音、グッドニュースだからです。
 神は私たちの立場を明確にしてくださいます。どこかの国の小市民ではなく、神の国の偉大な国民であること。さらに、平凡な一般人ではなく、王の王たる神の子であること。私たちは朽ち果てる世に属すのではなく、朽ちることのない永遠の命に属しているのだと。
 王家の者として、あなたは特別な人生を用意されています。王の子が自動的に王子、王女になるように、あなたに身分を与えるのは王であり、父である神です。あなたを愛するあまり、その王は命を捨てました。ですから、あなたは生かされているのです。
 あなたは十字架の家紋をつけた王族の一人です。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2022-03-20
3月20日「キリストのように」

エフェソ3:14~21
 聖書の目的は、主なる神のご計画を人々に伝えることです。それは、十字架の愛であり、復活の希望です。しかし、神の目的は私たちが天国行きのきっぷを手に入れることだけではありません。
 私たちが主イエスの姿に変えられていく、これが聖霊の働きだと聖書は語ります。では、それはどのように可能となるのでしょうか。
 パウロは祈りの中で、神ご自身が聖霊の働きを強めてくださること、そして信仰によってキリストご自身が私たちの内側に住んでくださるように、と祈っています。私たちはそのような祈りをしたことがあるでしょうか。そして、その祈りが現実となり、しっかりと愛に根ざし、愛にしっかりと立つ人になれるように、とパウロは神に願うのです。
 私たちが人を愛せるように努力したり、我慢したりする力を磨くのではなく、愛に根ざし、愛に立つ人とは、神の愛である主の十字架に結びついた人生のことです。私たちが愛を創造したり、理解しているのではなく、愛を創造し、完全に理解しておられる方に委ねることをはじめるのです。
 その愛は人間の理解を超えた愛であるため、何よりも、聖霊の助けが必要なのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2022-03-14
2022年3月13日「人生=礼拝」

創世記12:1~8
 私たちの教会は、日曜日の礼拝が10時から始まります。これは神の家族が顔を合わせ、共に神を礼拝する特別なイベントです。しかし、教会を出ると、次の礼拝までにガス欠になったりしませんか。
 アブラハムは特別なイベントごとに礼拝をささげていたのでしょうか。彼は行く先々で祭壇を築きました。これは彼のパーソナリティであることを超えて、イスラエルという神の民のアイデンティティになっていくのです。イスラエルがその事をやめたとき、彼らは国を追われる自体に直面するのです。
 あなたは祭壇を築く人生を送っているでしょうか。それは、神を礼拝することと同義です。つまり、人生とは、神を礼拝することとイコールなのです。詩篇記者は、人間は神を賛美するために創造されたと記しています。ガス欠になったり、自己中心的な判断に頼り切って失敗したり、あなたはそのようなことをしなくてもよいのです。
 主イエスは多忙な日々の中でさえ、ひとり礼拝の時を持っていました。そこから力を受けとっていたのです。進むべき道、将来のビジョン、否定的な感情からの解放。祭壇には、神が与えてくださる、あらゆる恵みで溢れかえっているのですから。

※オンライン礼拝のため、録画はありません。ご了承ください。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2022-03-14
2022年3月6日「祈りの力」

ヤコブ5:13~20
 共に祈りを合わせる時、あなたの意識はどこに向かっているでしょうか。祈りを通して父なる神に自らの思いを明け渡すことができているでしょうか。
 順番に祈る時、「そろそろ私の番だな」、「あ、そのこと祈られちゃったか~」などと、考えているのは私だけでしょうか。
 主は祈りの言葉の流麗さを気になさらないばかりか、信仰が伴っている祈りだけを聞くわけでもないようです。ペトロのために祈っていた人々は、彼が本当に牢獄から解放されると信じていなかったようですし、まだクリスチャンでもない方々の切実な願いを聞き入れてくださった証を聞いたこともあるでしょう。
 事実、祈りには絶大な力があります。そして、神はそのことを知ってほしいのです。祈ってみたい。弟子たちにそう思わせるために、主イエスは「何でも叶えてあげよう」とおっしゃいました。
 あの日、祈ること以外に望みはない、というところに置かれた時、あなたの意識は完全に神に向かっていたことでしょう。その時、あなたは祈ることに何よりも価値を見出していたことでしょう。
 あなたは今、何を本気で祈りたいですか?

※オンライン礼拝のため、録画はありません。ご了承ください。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2022-02-28
2月27日「復活の証人」

使徒2:32
 初期キリスト教会の人々は、聖書を手にしていませんでした。彼らが持っていたもの、それは復活の主に出会った、という証でした。
 あの日、荒野で洗礼者ヨハネが悔い改めの洗礼を授けた時、ユダヤ全土から人々が押し寄せました。しかし、復活を目にした人たちはたったの120人。ペトロの情熱的な証により、復活の主を目にしたわけでもないのに信じた人々がおよそ3000人でした。一見、多く見えますが、父なる神を信じる人々全体から見れば、まだ微々たるものでした。
 しかも、この復活の話は荒唐無稽過ぎて、アテネの町では嘲笑の的になりました。それは、この話が口で伝えたからといって、すべての人が受け入れられるような話ではないからです。では、そのような信じがたい出来事が、現代になっても力を持つのはなぜでしょうか。
 そこに、命を奪われる状況の中にあっても喜んで天国の希望を持つ人々がいました。主のように、砕かれた人に寄り添う人々がいました。互いに愛し合う、共同体の謙遜な姿がありました。
 証とは、復活の主を見た人々を見た人々の話です。綿々と受け継がれる聖霊の流れの中に、今、あなたもいます。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2022-02-20
2月20日「喜びの根拠」

フィリピ4:4~7
 フィリピの信徒への手紙は喜びの手紙と呼ばれています。しかし、執筆したパウロは牢獄の中にいました。そのような状況にあって、「喜びなさい」と言うのです。
 喜べるような現実がある人に、「喜びなさい」と言う人はいないでしょう。言われるまでもなく、喜べるのですから。この手紙は、フィリピの教会で失われつつある「喜び」に再びフォーカスするようにと、パウロがしたためたものなのです。
 ところで、喜ぶためには根拠が必要でしょう。自分にとって嬉しいことがあれば喜ぶ根拠となるように、喜べないときに喜ぶためには、ひきつった笑顔にならないための根拠が必要なのです。パウロは喜ぶことの根拠をどこに置いていたのでしょうか。それは、彼の信仰の歩みに神ご自身が応えられた、その体験でした。
 牢獄の中で賛美していると、看守や囚人たちは平安になり、錠前が外れ、扉が開き、神の出来事が起こったのです。神への賛美と福音の喜びが世界を切り開いた瞬間でした。
 私たちは、あの時の神と同じ神を信じています。彼らに起こったことが私たちには起こらないと、どうして言うことができるでしょう。賛美の中に住まわれる主が、あなたの喜びの根拠です。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2022-02-13
2月13日「愛に選ばれた私達」

申命記7:6-8  ヨハネ15:11-17
 わたしたちの思いと神様の思いの何と異なることでしょう(イザヤ55章8-10)。この真実は、新約に限られたことではありません。さすらいの1アラム人であったアブラハムにも、さらに時代を経て、出エジプトにおける神様の宣言の中にもみられるものです。「イスラエルの選び」について、その選びは、ただ一方的な神様の側からの選びであり、その理由は、「最も貧弱であった」ことによると宣言します。
 これこそが「神の愛の選び」なのです。それは時を経て、主の喜びが「あなた方の内にあり、あなた方の喜びが満たされるためである」との、弟子たちの、そしてわたしたちの選びへと繋がっているのです。「神の永遠の救いの選び」は、その根拠はわたしたちの内はありません。「神のわたしたちの選び」は一方的神の永遠の愛にあることを、しっかりと受け入れる時に、主観的感情に左右されない、神の出来事となります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたし(主イエス)があなた方を選んだ」という、神ご自身による出来事となるためです。
 それはまた、「主の愛の実を結ぶ」世への証人としての招きなのです。わたしたちは貧しきが故に、選ばれたのです。キリストの愛を生きるためです。喜びが満ち溢れる愛の証人となるためです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2022-02-09
2月6日「1匹の羊」

ルカ15:1~7
 預言書にもあるように、聖書は神の目から見た人間を迷子の羊として見ています。やがて、主イエスが地上に来られると、ご自身の口からも同様のことが語られていきます。
 99匹の羊を残して1匹を探す。このたとえ話は当時の信仰者の間で理解が難しかったものとして語り継がれています。なぜなら、迷う羊とは、イスラエルの共同体の中では不信仰の極みであったからです。
 律法の遵守によって救い主が来る。清さが保たれる。平和が満ちる。そう考えられていた時代に、迷子の羊を神ご自身が身を粉にして探す姿は、彼らにとって難易度の高い物語であるばかりか、理解不能でした。そのため、物語を改変した文書が出回っていたほどです。
 しかし、十字架の意味が解き明かされ、主の赦しがあったことが理解されるようになると、この物語の真の意味が明らかになってきたのです。
 私たちが自分自身にダメ出しをする時、きまって相対的な評価をつけていることでしょう。誰と比べて、何と比べて、あなたは劣るのでしょうか。あなたが他と比べて劣っている。本当にそれは神のみ心でしょうか。もちろん、そうではありません。
 その根拠をこの物語は語っているのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2022-02-09
1月30日「シンプルに生きる」

マタイ28:16~20
 聖書の中にある主イエスの言葉はいたってシンプルです。これらの言葉を実践できない人はいないでしょう。それでも、実践できないのは主の言葉に問題があるのではなく、私たちがやろうとしないからです。では、なぜ、やろうとしないのでしょうか。
 あなたはとても居心地のいい状態から放り出されることを望むでしょうか。同じように、私たちが現状に満足し、安住することを望むならば、聖書の言葉は非常に苦しく感じるものです。悲しいときは悲しんでいたいので、喜びなさいという主の声に導かれることは苦しいのではないでしょうか。
 今、世界中は新型のウィルスによって変化を求められています。多くの方々は、以前のようになりたい、と思うことでしょう。マスクをせず、いつでも自由に飲食が、営業が、移動ができる毎日。もちろん、そうなれば良いのですが、主は「行って」と、現状から一歩踏み出すことを命じるのです。それはなぜでしょうか。私たちの主は、新しいことを起こしたいからです。
 神ご自身が人となり、十字架で命を捨ててすべての罪を清め、復活して永遠の命があることを示す。その全てが新しいものをもたらしました。しかし、その背後には、主ご自身が御国という絶対安全な場所から一歩踏み出された結果なのです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2022-01-23
1月23日「絶望の中の希望」

エレミヤ29:10~14
 バビロンという異国の地で暮らさなければならなくなった人々の嘆きはどのようなものだったのでしょうか。実は、ある程度の自由が保障されていたようですが、その裏には、大きな迫害と嘲りがあったようです。そのことが詩篇137篇となって歌い継がれています。
 彼らに絶望的なニュースがもたらされました。それは、家を持ち、畑をつくるというもので、彼らは故郷に変えることが絶望的なことだと思い知らされたのです。
 捕囚はイスラエルの民の不信仰が原因でしたから、彼らの後悔や自責の念は耐え難いものがあり、帰ることができない故郷を思いながら異国の迫害の中でしっかりと生活することは困難を極めました。
 しかし、同時に預言者エレミヤからの言葉はそれだけにとどまりませんでした。なんと、背きの罪ゆえに散らされた彼らでさえも、神の素晴らしい平和のご計画の中に数えられているのだというのです。しかも、神の不在を異国で嘆き悲しむ彼らに、神がいつでも答えるとさえ言うのです。
 十字架と復活によって平和を実現した神の御子、主イエス・キリストが、いつでもあなたと共にいる。神の計画は将来と希望を与えるものです。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2022-01-23
1月16日「キリストの証人」

マタイ24:14
 ある国に短期宣教に派遣された時、そこにはまだ聖書がありませんでした。そのような地で、宣教はどのようになされたのでしょうか。それは、一人の復活の証人が、自らの人生に働かれた主の栄光と、十字架と復活の福音を口で教えたことにはじまります。
 今日は、賛美礼拝の中で複数の証人が立てられています。主はこれらの方々を、そして私たちを通して、福音を全世界に届けようとされておられます。さあ、主はそれぞれの人生に、どんな栄光を現してくださったのでしょうか。期待しましょう。

※ プライベートな内容のため、映像はありません。ご了承ください。

Posted in 宣教 | Comments Closed

2022-01-08
1月9日「キリストに倣う」

詩編41:10  ヨハネ13:12-20
 この年、日々の歩みの中で、教会とわたしたちが、キリストの証人として歩みを祈る中で、心に留めなければならないことは何でしょうか。それは、「キリストに倣う」以外のことではありません。
 「インマヌエル」の恵みに支えられつつ、「わたしの時はあなたの御手にあります」、の御言葉に生きる歩みです。それを生きた一人がフランスの神父、アベ・ピエール神父です。「それでも、永遠なる神は愛である」「それでもわたしたちは愛されている」「それでもわたしたちは自由である」がそれです。
 主は、十字架につけられる前日の木曜日、最後の晩餐の席で、事もあろうに、弟子たち全員の足を洗われました。上着を脱ぎ、腰に手ぬぐいを巻かれたた主の姿は奴隷の姿そのものでした。
 主は「ご自分の時(十字架につけられる)」が来たことを知り、「弟子たちをこの上なく愛し抜かれた」姿が出来事となったのです。
 時を経ずして、それほどまでに愛された弟子たちは、ユダ、ペトロのみならず、全員が主を裏切ったのです。その彼らに、彼らの言動を知りつつ、主は、「わたしがあなた方にしたとおりに、あなたがたもするように」言われたのでした。主に従うこととは、主に倣うことに他なりません。あなたは⁉

Posted in 宣教 | Comments Closed