宣教

8月9日「迂回の祝福」

出エジプト13:17〜18 マルコ1:13〜14
 「迂回」という言葉は旧新約聖書を通して、決定的とも言うべき神の御心と関わっていると言えるのではないでしょうか。出エジプトをしたイスラエルの民は、「荒れ野の道」に迂回しました。アブラハムもヨセフもダビデも人生の迂回を嫌というほどあじわった人たちでした。預言者たちも、「何という無駄な!」と嘆いたことは数知れなかったことでしょう。
「サマリアを経ざるを得ず」(ヨハネ4:4)の御言葉に明らかなように、誰よりもわたしたちの主がそうでした。主は迂回を通して、どんな場所も御手の内にあることを明らかにされました。
 主イエス様には、ナザレでの沈黙の30年のみならず、荒野の40日がありました。実は、迂回と見えることこそが、「神の国」にとっての最短距離であったのではないのでしょうか。
 わたしたちの人生も、「こんなこと!」と思える一つ一つが、神の国への最短距離であるのです。「あんなことがなければ!」のなかにではなく、「 あの事があった故に!」が信仰の王道なのです。
 マリアもヨセフも、ザカリアもエリサベトとも…(あなたは誰をおもいだしますか?)あなたの迂回と思える人生のその場所に、共にいてくださった、共にいてくださる主と出会うことが出来ます。