宣教

12月26日「確かな希望」

イザヤ30:15~18
 聖書には「希望」という言葉が多く出てきます。しかし、一番最初に出てくるのは、「希望はありません」という言葉です。
 人は誰しも罪の支配の中にあり、自らの内から希望は湧き出てこないというのが聖書の人間観であり、時代が変わっても、身の回りの利便性が高まったとしても、決して変わらない真理です。ですから、はるか昔も今も、希望は外から与えられるものであり、外とはまさに主なる神と、その言葉である主イエスをおいて他にないのです。
 今年もたくさんのことを願ったことでしょう。祈り求めた日々を思い返せば、叶ったことと、叶わなかったことがあるはずです。叶わなかった時、それは希望が打ち砕かれた時です。そして、聖書ではまさに主の十字架の出来事こそ、人間的に見れば、希望が打ち砕かれた瞬間でした。絶望の中、弟子たちは逃げ去り、隠れ、恐れの中にいました。しかし、主が与えられる希望とは、人間の常識やこの世界の普遍性を遥かに超えるものであり、被造物がどうにかできるたぐいのものではありません。それが復活です。
 主の与えてくださる希望は決して裏切りません。その希望によって救われた、とパウロは語るのです。